土曜日、

いつからだろう。味の余韻を感じる、ということをしなくなってしまったのは。
味の余韻、つまり飲み込んだ後に鼻から抜けていく後からやってくる香りのことである。香りを感じる前に、次の食べ物を口に運び、一瞬で食事を終えるような、そんな食生活を送っている。
”食事”という言葉の後にどういう動詞を選ぶのか。ここに、食事に対しての価値観が現れると思う。
大学生の時。当時の僕であれば、”楽しむ”という言葉を持ってきたはずだ。食事、それは基本的にだれかと一緒に囲むものであった。味を楽しむことは言うまでもなく、時間や空間を楽しんでいたと思う。
社会人になって数年間。あの頃であれば、”味わう”という言葉を使っていたと思う。食品メーカーに入り、バイヤーや料理人への営業をしていた時代はもちろん、自分でも料理をどんどんするようになり、味を感じて、実感を伴って言語化していた気がする。
そして今。悲しいかな、”摂る”という言葉を使ってしまう。なんならそれは、食事という言葉さえなくなり、”栄養を摂る”に近いかもしれない。
「ねぇ、ランチ食べない人なの?」僕のデスクの上にいつも置いてあるエナジーバーを見て、後ろに座っている同僚が話しかけてきた。
そういうことではない。ただ、ランチに行く時間が結構ない時があるから、栄養が簡単に”摂取”できる加工品で、一瞬で小腹を満たすのである。そしてすぐに固形物を液体で流し込むのだ。
そこには、味わうどころか、味の余韻に浸る時間は一切確保されていない。
考えてみると、これは食事だけの話ではない、そんな気がしてきた。
仕事。僕は、仕事と仕事の間にインターバルを設けることが苦手だ。大きなプロジェクトが終了に近づくのが見えると、すぐに次のプロジェクトに足を突っ込み始める。節目を作ってしまうと、そこからもう戻ってこれない気がするからだ。
読書。本が好きだ。新聞が好きだ。文字を追っていると、気分が良い。活字中毒ではないが、読むものがなくなってしまうと中毒症状が出始める気がして、一つの本が読み終わる前に、次の本が手元にないと気が気でならない。読後感を感じたい。
趣味。多趣味だと言われる。よく言えばそうかもしれない、でも違う。一つの趣味にしておくことが怖いだけだ。一つをじっくりと深めることが苦手で、片方に手を付けながら、片方も手を回す。こなす、に近いかな。それって趣味なの?
目の前のことやもの、それだけに集中してじっくりと向き合う、味わう。終わった後の余韻を感じる。そして再び戻ってくる。こういうサイクルがないから、なんかいつもバタバタしてるよね、ってそう言われるのだと思う。
余韻の大切さ。
実は、昨夜友人の薦めで訪れたフランスバルで、その大切さを実感できたのだ。
カジュアルだけれど洗練された小さなフランスバル。ワインのペアリングとフランス料理のコースを楽しめる。それぞれの料理にお勧めのワインが提供され、そのマリアージュを感じる。結局、閉店の23時半まで滞在してしまった。
最初にやってくるアタックの香りと、後から鼻に抜ける残り香。これが全然違っている。ゆっくりかみしめていくと、どこかでやってくる種類の異なる芳香。そのあとで、流し込むワインとのマリアージュ。そのあとの余韻。
一つ一つの料理がとても複雑で、一口の中に無限の香りが広がっている。食べ終わった後に広がる香りが、まだほんの少し残っている状態で、ワインを口に運ぶ。
舌が喜んでいる。私も喜んでいる。
この一連の流れが、とても心地よい。
ああ、これが食事を味わうということなのか、余韻に浸る、ということなのかと実感。
昨夜のフランスバルは、食事だけじゃない、一つ一つの複雑さに向きあうということ、そのために余韻を感じる時間を設けることの大切さを感じさせてくれるものであった。
行き急ぐことが大事な時もあるけれど、最後実はそんなに変わっていなかったりする。
もうちょっとだけ、余韻を意識した生活を送るのも良いかもしれない。