土曜日、

「基本的に、人のこと疑ってかかるんだよね」
このフレーズを聞くたびに、もう何回目だろうと思う。
僕の周りのいる人たちの多くが、まず疑ってかかるというスタンスのようだ。
前職の尊敬していた上司、あの人もそうだった。
前職で仲良くしていた後輩、彼もそう。
現職で仲良くしている同僚もそんな感じ。
そして、一昨日久々に飲んだ、今は別の会社で働いている元同僚もそう。
翻って自分。
ことごとく言われるのは、真逆。”陽”だよね、こう言われること100%。
正直、ここ数年前まではそんなこと気が付かなかった。
新しい仕事、新しい環境、新しい仲間。新しい何かに出会うたびに、このように言われ続けると、実際にそうなのだと実感せざるを得ない。
相手の事を疑ってかかるか、それとも信じてかかるか、これを分けるのは過去の経験なのだろうか。
それも一理あると思う。
どういうことか。
誰かを心の底から好きになるという経験が僕は30年生きて一度もない。よく漫画やアニメで言われるような、「どうしようもなく惹かれていく」、こういう感情を抱いたことは一度もない。男女問わずである。
つまり、仮に裏切りがあったとしても、別にその人のことを心の底から好いているわけではないから、特にダメージがないのである。だから、裏切られても酷く落ち込むということがない。
だから、相手をまず疑ってかかるということがないのかもしれない。
一方でその真逆も考えられる。信じていないことには、やってられないという状況をずっと生きてきた、ということだ。
確かにそれなりに大変な子供時代を過ごしてきたのかもしれない。あとは、海外に一人で飛び込んで、誰かの助けがない限り生き残れない状況も経験してきた。こんな状況では、周りにいる人たちを信じて頼るしかなかったと、今考えても思う。
いわゆる、性悪説と性善説とで線引きをしたら、僕は確実に性善説の方に属する。
でも、そしたらなんで仲良くなる人は、ことごとく性悪説なのだろうか。
それは、僕がどことなくそういう人に憧れを抱いているからなのかもしれない。
悪い言い方をすれば、穿った視点を持っているともいえる彼ら。そんな彼らは常に毒を吐いていて、思ったことをズバズバと言ってくれる。そういう姿を見ていると、心がスカッとするし、そのユニークネスに感嘆するのである。
客観的に考えて、ピュアすぎる人と一緒にいても、薄っぺらい話しかできないからつまらないと、僕も思う。
言われたことに対して、本当にそうなのか?という別の視点を持ってくるからこそ、彼らの意見は面白いのだと思う。
ああそうか、間違いなく僕はそういう彼らになりたいのだと思った。
「え、それって本当にそう?」
そうやって疑うためには、相手の主張をしっかりと理解しなければいけない。理解するには、その人に注目しなければいけない。
そう、そのベースの部分が僕は欠けているのかも。
人に興味を持つ、ということなのだろうか。
スタンスの違いがどこから来るのかを考えることは、人への興味があるかどうかのレベル感を測ることに繋がるのかもしれない。