日曜日、

これからの季節、年末になるにつれて忙しくなる人も沢山いると思う。社会人だけの話ではない。受験生にとっても、冬に近づくにつれて焦る気持ちが募っていく学生も、きっと多いと思う。そういう状況に陥れば陥るほど、僕らは他人のことを自分の物差しでジャッジしようとしてしまう。
「僕はこんなに頑張っているのに、なんであいつは遊んでいるんだ」
「なぜあいつにはこれが出来るのに、お前はこれができないのだ」
「〇〇君は勉強も部活も頑張ってるのに、うちの子といったら・・・」
そうやって自分と他人、他人と他人、しまいには他人の子供と自分の子供を比較してしまう。
「だからあいつはダメなんだ」「だからお前はダメなんだ」
1つの視点から物事を見た時、そこからはみ出てしまったり、到達していなかったりすると、こいつはダメだという風に簡単に断罪してしまう。
こうやって文章に起こしてしまうと、とても卑劣なことをやっているように見えるけれど、ふだんの生活の中で無意識にこういうジャッジをしていることって結構ないだろうか。僕自身も自分に余裕がなくなってくると、そうやって短絡的に判断することが少なくない。
ただ、本当にそうやって断罪していいのだろうか。ちょっと一旦落ち着こうか、というう風にも思う。
例えば、なんで自分はこんなに頑張っているのに、あいつは・・・と考えてしまう時。それって本当に相手は頑張っていないと言い切れるのだろうか。
究極的な話をすると、僕はその相手ではないから、同じことをするときに、どれだけそれが相手にとって負荷のかかる作業なのか体感することは難しい。もしかすると、その相手は息をするのも一苦労な人なのかもしれない。自分と同じくらいの頑張りを求めて、その取り組み方やアウトプットから相手を判断したいのであれば、その相手が、まず自分と同じほどの身体能力・知識や経験を持ち合わせていることを確認しなければいけない。
実験で何か一つの事象を検証したい時、それ以外の条件は全て揃えるということを、僕らは普通にやっている。なのに、こうやって人と人とを比べる時は、そこを忘れてしまっている。
そして、人と人とを比較する時に、全ての条件を揃えるなんて、そう簡単に出来る話ではない。だから、一つの視点だけで、自分の視点だけで相手を判断すべきではないのだ。僕は相手の身体に乗り移ることはできないから、その相手がどういう状況なのかも分からない。だから、そもそも比較すべきではないし、何かを判断すべきではないと思う。
こういう考え方は、組織では大いに嫌われるということは分かっている。一つの判断軸や指標があって、そこに対してAさんはここまで到達していて、Bさんはここまでしかいっていない。だからAさんの方が評価され、Bさんは評価が低い。これだって、本当にAとBが同じ人間でない限り、そう簡単に評価なんてできないはずだ。
僕はそんな思想を持っているから、マネジメントは向いていないし、きっと組織に所属することも向いていないのかもしれない。なぜなら、こういう思想だと、チームや組織をリードすることは出来ないからだ。それぞれ違うんだから仕方ないでしょ、と思ってしまうのだ。もちろん、これはこれである種不寛容であるということも分かってはいる。
今はまだ組織に所属しているけれど、やはり将来的には独立なのかもしれない。
この話は、今朝Voicyを聞いていて、僕が毎日聴いている人の一人である荒木博行さんの放送を聞いて着想を得たものだ。
「人に関心がないってこと?」と、僕は周りから言われることがあるが、そういうわけではない。僕はあなたではないし、あなたは僕ではないから、何が正しくて何が間違っている、何が良くて何が悪いなんて、僕一個人だと判断できないでしょ?と思うだけだ。
だから、「〇〇みたいな人が許せない」とか、そういう風に簡単に言う人を、僕は一切共感が持てない。平等な視点を持っていそうに見えて、どれにも肩入れしないから冷たいと言われることもあるけれど、それが僕である。
でも良いのだ。あなたは僕じゃないし、僕はあなたじゃないから、簡単に共感できないことの方がむしろ正しい反応だと思うから。