HONEST

猫好き・植物好き・ラジオ好きの齢32歳。日々の学びや気づきを、文章とイラストで自由に記録していきます。

1月3日 表現をすること、日記を書くこと

土曜日、

 

 

私たちは、なぜ大人になると表現できなくなってしまうのか?

僕が日頃聞いているポッドキャスト番組の1つ「超相対性理論」で議論されていたトピックである。

皆さんは、大人になると表現ができなくなるという意見に賛成だろうか。僕個人としては、強く賛同する。その理由を伝える前に、そもそも表現をするということは何を指しているのか、そこから考えたいと思う。そう思って、僕は本屋に行き、超相対性理論のメインパーソナリティである渡邉孝太郎さんの最近の著作『生きるための表現手引き』を購入してみた。

以下引用である。

「人の存在や行為に起因して生じる変化」

なるほど納得である。表現というと、何かを能動的に生み出して外に出す、みたいなイメージがあるけれど、「変化」ということは、勝手に生じるというニュアンスがある。つまり、能動的というよりも、はからずも生まれてしまう、影響を受けて何か自動的に発生してしまう、みたいなことだと思う。ただ、この本では単純にそういう変化だけについて触れているのではなく、あらゆる表現は再構成でもあると記載されている。どういうことか。

表現という言葉と良く一緒に使われるのが「オリジナリティ」、いわゆる独自性である。ただ、これだけ長い間文明が世界のあちらこちらで続いてきている中で、本当に0から1を生み出しているのかというと、はなはだ疑問である。どの表現者も、生まれてから何かを生み出すまでの間に外的な影響を多分に受けている。それらがベースとなって何かを生み出しているのだ。まさに何かによって生じる変化、である。そして大切なことは、まずは何かを模倣することから表現が始まるということだ。

私たちが発話するようになる時もそうだと思う。突然言葉を話し始める赤ちゃんも周囲の人々が何か話している様子を聞いている中で、言葉を話し始めるようになる。

つまり、何かを表現しようと思ったら、まずはしっかりと模倣することが大切だ。だから美大の受験では、この時代になっても鉛筆デッサンが科目として設けられているし、音楽も書道も他の芸術も、言ってしまえば普通の勉強だって、まずは習うことから始まる。そう考えると、うちにあった石膏像2体を中学校に寄贈してしまったことは、いま考えればもったいないことをしたと思ってしまう。

ちょっと話がずれたが、この模倣することから始まる表現という行為について、ここまでは頑張れば誰でも出来ることなのかもしれない。ここからが難しい、というかここまでで止まってしまう人が多いのが実際のところだろう。

それはなぜなのか。実はここに、大人になると表現できなくなってしまうことの真因が隠れていると思う。それは、好きなように表現するということが出来なくなってしまうからだ。

この本の中で素晴らしい比喩が使われていたので引用したい。

『旅にたとえてみましょう。例えばバルセロナに旅したいと思うとき、「他の誰かが先に行っているから行かない」とか、「ほかの誰かの方が旅が上手だから行かない」という遠慮は、おかしい(省略)。行きたければ行けばいい。ほかの誰でもなく、自らが体験するために(省略)。誰かに先を越されても、似ていてもいい。ただ出かければいい。』

旅をするように作ればいい。そうか、そういうことか。腑に落ちた。旅先をどうやって決めるか。自分が行きたい所に行くだろう。そこに具体的な理由はないし、比較も優劣もない。そうやって作ればいい。

大人になればそれが難しいということは、その通りである。常に比較されて、優劣をつけられて、そして評価されて、最終的にはそれで賃金が決まる人だっている。だから、表現ができなくなってしまうのではないか。

もう少し卑近な例で考えてみてもいいかもしれない。メーカーで商品開発を頑張っている人がいる。TVCMのクリエイティブを考えている人がいる。インフルエンサーとしてSNS投稿を頑張っている人がいる。みんな何かしらを生み出している表現者だ。でも、旅をするように作っているのか?必ずその先にいるのは消費者がユーザーが居て、その人たちに受け入れられるものは何か、という観点で表現をしている。つまり、表現でははないのかもしれない。

ただ働くということはそういうことだ。独りよがりではいけない。ずっと旅しているわけにもいかない。

それならば、こういうブログのような場所を使って、自分の好きなように文章を書くという行為はどうだろう。大人とか子供とか関係なく、別にだれが読んでいるとか関係なく、ただ書きたい時に書く、日常生活の中で自分に起きてしまった変化をそのまま表す。素晴らしい場所だと思う。

誰かのためになるブログもいいけれど、旅するように紡いでいける聖域としてのブログもまた、この上なく素晴らしいと僕は思うのだ。