「雑談が下手」ということが、まさに僕自身にも当てはまることで、こういう人が他にも居たのか!と、自分事化して前のめりになって放送を聞いてしまった。
僕の場合、同年代というよりも、やや年上の男性との雑談がとても苦手なのだ。僕は今年30歳だから、ここでいう年上というのは40代くらいの方をイメージしている。
つまり、多くの会社で中核となっているコアメンバーの方々である。
仕事の話であれば、全くもって問題ない。それが自分の仕事の領域とかけ離れていたとしても、むしろ知らない世界のことなので、とても興味深い。
一方で、プライベートの話になったりすると、途端に冷めてしまう、というか何を話していいのか分からなくなってしまう。
例えば、エンジニアの方とコーディングについて話すこと。僕は、コード書けないので、ちんぷんかんぷんなのだが、どんどん質問することができる。
しかし、もしその人が突然、
「うちの3歳になった子供がさぁ、〇〇でさぁ」という感じで話し始めると、途端に混乱してしまう。
”どんな質問をしてほしいと思っているのだろう”
”この会話、楽しんでもらえているのかな”
”このトピックを持ってくるっていうのは、どういう展開を望んでいるわけ?”
脳内で思考がフル回転し始める。会話がひと段落した時には、もう脳内で汗の洪水が発生している。
これは僕の、「いい子ちゃんでありたい思考」が影響していると思う。
大人の言うことはしっかりと聞いて、特に反論はしない。つまり、悪目立ちしない若手でありたい、という感じだろうか。
根底にあるのは、私という身体・精神に自信がない、という強い強迫観念だと思う。
僕は気づいたら肥満児とみなされる体型で、ピーク時は中学2年生の春。身長168cm、体重100.1Kgという体型であった。
体操着などはサイズがないので、事前の特注。今はユニクロで、「ネットで大き目のサイズ販売しております」というサービスがあるけれど、当時はなかった。
どう考えても、いじめの対象になる体型だった。
さらに、そこで追い打ちをかけるように、両親の離婚が成立し、苗字が変わるということが起きた。
子供だけじゃなく、親や先生も何だか僕を見てソワソワしていた。
その後、40kgの減量に成功したけれど、その時に身に着けた術が
「目立たない、いい子になること」だった。
この癖はなかなか取れない。同年代以外の人とのコミュニケーションでは、自然とこの姿勢が発動するようになっている。
ただ、コロナ禍になって、他人との接触が極限までなくなった時、なんとストレスフリーの世界なんだと、不謹慎かもしれないが、僕にとっては居心地が良すぎる世界が広がっていた。
今でも、テレワークの方が集中できたり、週末は1人で居たいと思うのも、この病が原因だと思う。この病、一体なんと呼べばいいんだろうと思っていた時に、出会ったのがリンクを貼っている『先生、どうか皆の前でほめないでくださいーいい子症候群の若者たち』(著者:金間大介、東宝経済新報社)だ。
ただ、だれとも関わらないで生きるということは出来ないし、不健康だとも思う。
「僕が解放されている時ってどんな時だろう」
改めて考えてみると、大きく2つに分けられた。
一つは、日本社会から離れている時だ。これまでに、タイやカンボジア、中国などに住んできた。そこで僕の事を目にする知人たちは、皆、口をそろえて言う。
「まるで別人だね。水を得た魚みたい」
日本に居ると、いつも誰かが自分のことを見ているんじゃないか、評価してるんじゃないかって思ってしまう(思ってしまうっていう意識もしていなくらい、もう染みついてしまっている)のだけど、海外だと誰も見ていない。
特に、まだまだインフラが整っていなかったり、事故が多発する社会だと、いい子ちゃんで居ても、全く意味がない。だから、自分の素になれるのだ。
もう一つは、自分じゃないものを通して何かを表現するとき。
「あなたの、そのオクターブの音、音が弾けていて、聞いていて嬉しくなっちゃう」
「どんだけ絵に時間かけてんの?」
「よくそんなに書けるね」
昔から音楽をやっていたのと、絵をかいたり文章を書いたり、こういうことが好きだった僕は、たぶん自分じゃないもので表現をすることで、いい子ちゃんから脱却していたのかなぁと思った。
何だかダラダラと書いてしまったけど、今日紹介している本でも書いてあったように、割と若い人達の中で、いい子ちゃんが広がっているようだ。
このいい子ちゃんから脱却するには、
・環境をガラリと変えてしまうこと。自分の力じゃ何も及ばないような環境に身を置くこと
・自分の身体以外で自分を表現すること。
この二つが大事なのかな、って思った。
僕も頑張るから、もしこの病で悩んでいる人がいたら、一緒に頑張ろう。