HONEST

齢31歳。音声コンテンツ好きの僕が、日々の学びや気づきを、文章とイラストで自由に記録していきます。

8月15日 「他人に迷惑をかけないこと」が、生死よりも大事なこの国で

火曜日、
 

 
今日はブレイディみかこさんの著作『他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ』という本を読んでいた。残り1/4残っているが、思い出したエピソードがあり、ここに記す。
 
ちょうど数日前に読んでいた鴻上尚史さんの著作『世間ってなんだ』に出てきた一幕である。朝日新聞に投書されていた内容とのことで、実際にあった話だ。
 
ある師走の冬の日。終電間際の電車内。二人の初老男女。どうやら夫婦のようだ。何やら落ち着かない様子でヒソヒソと話し込んでいる。
 
妻:”意識がなかったって、声はきっと聞こえるよ。だから電話かけた方がいいんじゃない?”
夫:”ここは電車の中だし迷惑がかかるから、やめた方がいい”
妻:”だって、これが最期の会話になるかもしれないんでしょ。後悔するよ。”
夫:”分かってる。分かってるけど、電車の中で電話するのはやめた方がいい。”
 
初老男性の方の母親が危篤状態で、最期を看取るために二人で病院に向かっている最中の描写した様子である。最終的には妻に説得されて、電話をかけようと立ち上がろうとしたとき、近くに座っていた女性がすっと近寄り声をかけた。
 
「お気になさらず、電話、かけてあげてください」
 
周囲の乗客もみんな頷き、男性は無事に電話をかけることができた。病院に到着するまでの間、妻が夫の震える肩を抱いていた。
 
こういうエピソードだ。
 
大切な人の死よりも、他人に迷惑をかけないことを優先してしまう、そんな男性というより、迷惑をかけないことがマストになっている、こんな日本社会に対して異議を唱えたくなるような、エピソードである。
 
少し話が前後するが、ブレイディみかこさんの本『他者の靴を履く』は、他者の視点を持って物事を考えることを説いている。
そのことを、シンパシーとエンパシーという2つの英語で使い分けされている。
シンパシーは単純に共感すること。例えば、だれかのSNSの投稿に対して
「え、それかわいいね!」
と言う風に瞬間的に共感を示すこと。ポジディブな共感だけでなく、もちろん「かわいそう」「切ない」「ありえない」みたいな、ネガティブや怒りの共感も含まれる。
 
一方で、エンパシーは、単純な共感ではなくて、相手の立場で考えることを意味する。
例えば、小説や物語の登場人物に対して、全く共感できなくても、
「どうしてこの人は、こういう行動を取ってしまったのだろう」
「どんなことがきっかけで、こういう思考になったのだろう」
と、相手側になって考えることだ。だから、共感する必要はない。
 
このことを、ブレイディさんは、「他者の靴を履く」と言う風に表現されていたのである。もちろん、他者の靴を履くためには、自分の靴を脱がなければいけない。
 
ただ、同時にブレイディさんは述べている。
”相手の靴を履くためには、脱いだその靴を相手にも履いてもらわなければいけない”
 
このフレーズを聞いて、冒頭に書いた”世間に迷惑をかけてはいけない”と強い信念を持つ男性の、あのエピソードを思い出したのだ。
 
まず僕は、このエピソードを聞いた時、じーんと来てしまった。これが何を意味するのか、というと、こういう状況でも彼に電話を掛けることをすすめてくれた周りの人の温かさに感動したのだ。
 
つまり、気づかぬうちに、僕の中でも、他人に迷惑をかけてはいけないという強迫観念みたいなものが植え付けられている、ということだ。迷惑だと思わなければ、電話をすすめる人の行動は、ごくごく当たり前だから、特に何も思わないだろう。
 
僕も、特に社会人になってからは、とりあえずは周りの人に迷惑をかけてはいけない、ということを無意識的に意識して生活していると思う。
 
さっきのブレイディさんの言葉を拝借すると、他人に僕の靴を履いてもらわないように生きている。
 
つまり、僕は自分の靴しか履いていないから、他人の靴を履いていないのだ。
他人の迷惑を受けていない、ということになる。
 
ストレートに言うと、「お前の靴を俺に履かせてくれるなよ、な」と、無意識的に拒否していると思うのだ。
 
日本だと、お母さんが子供に、「他人に迷惑かけちゃダメでしょ」と言う風に叱る。これは、逆に考えると、「皆さんも私達に迷惑かけないでね」と言う風になる。
 
私の靴を履いてくれなくていいから、あなたの靴も私に履かせないでよね。
 
なんて、さみしいのだろう。ちょっとこれは、本当に、意識して態度を変えていきたいと思った。