土曜日、
教育と学習の違い。
二つとも同じ対象を見ているのだけれど、見ている立場が違う。
教育は、その名の通り、教える側。
学習は、頭を使って考える側。教わっている側。
つまり、教育者と学習者が同じ対象を扱っていたとしても、実際にその内容をどのように理解するかどうかは、学習者側である。
教える側は、ある程度の範囲内で、ガイドラインに従って教えるだろう。それを、そっくりそのまま教わるのも、全く受け入れないのも、はたまた興味を持って別の角度から考えるのも、学習者側だ。
そして、ひとたび社会に出れば、こと細かく教えてくれる人なんて、稀だと思う。その時に役に立つのが、自分で問いを持ち、考える力だと思う。
高校くらいまでかな?数学や物理の公式、英語の文法などなど。これはたしかに教わるけれど、さらにそこから考えるということはないと思う。
なぜなら、そこには考える余白が残されていないから。
多くの学校では、とりあえずテストでいい点が取れればOK、入試で点が取れればOK、だから教える側は、その目的達成に必要なことをみっちりと教える。先生が教える内容にも余白がないし、生徒側の脳内にも余白がない。
一方で、例えば大学の授業。僕は文学・人類学が専攻だったこともあり、むしろ余白が9割だった気がする。自ら問いを立てなければ、何の意味もない。
だから、考える日々が続いた。教授も多くは語らない。常にそこには余白があった。もしかすると、こういうのが逆に辛いと思う人も多いのかもしれない。
でも、僕にはこっちの方が適していた。考える余地を残してくれると、考え甲斐があるし、もっとその周辺の情報に当たらなければいけないと思うようになってくる。
実はここで培った経験が、今とても活かされていると思う。
前職では事業開発職だった。
「好きなこと考えてやってみ!」
これが出された課題だった。まさに余白だらけだ。問い続け、考え続け、、、の日々が続いた。
アウトプット思考が当初はなかったから、際限なく考えてしまって気が付いたら一日が終わっていたこともしばしば。少しずつ、アウトプットも意識してくるようになると、だんだんと周り始めた。
いつでもだれかが丁寧に課題を出してくれる、だれかが丁寧に教えてくれる、それに対して素直に従って成長していく、一件悪くないモデルだとは思うけど、それは学習ではなくて、教育または調教だ。
「なんでこの人、はっきりと言ってくれないんだろう」
「結局この人、なにが言いたいの?」
と思ってしまう人は、少なからず存在する。与えてくれるものは、余白だけだ。
でも、だからこそ自ら問いを立て、考えて、仮説を作っていく。
大人になればなるほど、こういう機会は増えていく。
学校の先生はいま、本当に大変な状況だということは重々承知している。だから、少なくとも大学くらいからは、こういう余白を考えて生徒に問いを生ませるような、そんなカリキュラムにした方が、むしろこれくらい雑な方がいいのではないかと、思った。
その後の人生が全然変わってくる。
このVoicyの放送を聞いて、こんなことを妄想した。