土曜日、
「台所は、私達が思っている以上に雄弁である」
そう語るのは、『それでも食べて生きてゆく 東京の台所』(毎日新聞出版 2022年)の著者である、大平一枝さんである。この本、最初にAudibleで聴いて、市井の人の台所の風景から、ここまで人生が見えるのかと深く感動した。それもあって、書籍も読んでみたくなりこの夏休み期間を使って読ませてもらった。
多くのエピソードが出てくるのだけど、僕の心に一番刺さったのは、台所小論と言う部分だ。
人は、忙しくなると、最初におざなりになるのが食である。この言葉が、まさに今の自分のことを言われているようで、びっくりしたと同時にちょっと辛かった。
台所を見れば、その人の人生が見える。この本の中で大平さんは、そのような趣旨のことを言葉を変えて幾度となく伝えているけれど、ひどく共感する。
初めて一人暮らしを始めた学生時代、東京での一人暮らしを始めた新社会人の時。どちらの場合でも、僕は基本的に自炊をしていた。毎週土曜日に一週間分の買い出しをやり、日曜日に一週間分のおかずやスープを作って冷凍保存する。いわゆる作り置きっていうやつだ。
前職ではそこまで忙しくなく、どんなに遅くても20時にはオフィスを出られた。21時前には家についていたから、そこから作業をすることは特に問題なかった。
今日はどんなドレッシングにしようか
リンゴが痛んでたから食べちゃわないと
帰りにネギだけ買って帰ろう
会社を出ると、もう思考はその日の晩御飯のシミュレーションである。そうすると、途端にお腹も空いてくるものだ。
今よりもだいぶ狭い1Kに住んでいた僕の部屋のキッチンは、清潔感はあったと思うけれど、それと同時に生活感にも溢れていた。でもそれこそ、ここ東京で生きているよっていう証だったのかもしれない。
料理をだんだんとしなくなったのは、コロナ禍だ。コロナをきっかけに自炊を始めた人が多くいる中で、僕はその逆だった。仕事が忙しくなったのだ。
今の仕事もそうだけれど、当時僕が担当していた仕事は、むしろコロナになって外出が出来なくなった方が需要が高まるようなビジネスだった。
料理を作る時間があったら、その時間を仕事に充てたい。
買い物をする時間があったら、その時間をカフェで勉強や仕事をすることに使いたい。
こうやって僕の生活の中で、仕事のウェイトが大きくなっていった。でも、当時はそれで楽しかったし、コロナで在宅だからご飯なんてスムージーで良かった。
気づいたら、卵が腐って異臭を放っていた。
気づいたら、牛乳の賞味期限が半年過ぎていた。
冷凍庫から、2年前くらいのカレーが霜だらけで出てきた。
炊飯器が壊れていることに2年気づかなかった。そして新しいものは買わなかった。
2年前に今の家に引越して、部屋も台所も前よりだいぶ大きくなった。だから、以前よりも、すごくスッキリとした整った台所になっている。掃除は今でも趣味で毎日台所も掃除しているから、綺麗なことは間違いない。
ただ、前のような生活感はなく、どちらかというと無機質なのかもしれない。
台所を見れば、その人の生き方が分かる。
今の僕の家の台所は、どんなメッセージを放っているのだろうか。
人は誰しも、人生の中でがむしゃらに働くタイミングがあった方がいい。これはよく言われていることだ。恐らく僕にとって、それが今なのだと思う。
でも、冒頭紹介した本の著者である大平さんがこれまで取材してきた人たちの中で、結構な人数の人が働きすぎによる心身の過労を抱えていたと、本の中で語っていた。
一番怖いのは、自分がその状態になっているかどうかも、分からないということ。
僕は、好き嫌いがないことが、一つの自慢ではあるけれど、ひょっとするとどれも同じ味に感じているのかもしれない。
東京で一人暮らしを始めた時から、ずっと使っている赤いケトルがある。実家を出るときに、母が渡してくれた。当時、T-FALの電気ポットを買っていたのだけど、ケトル便利だよって言われて持たされたのだ。
それから約8,9年。このケトルだけは、毎日使っている。お湯を沸かすという行為をしている間は、台所にいるか、もしくは意識を台所に向けてないといけない。
いま僕を台所に結びつけている唯一の存在がこのケトルだ。これで沸かしたお湯を使って、毎朝、白湯を飲み、コーヒーを飲み、帰宅後に腹が減っていたらインスタントの味噌汁を飲み、寝る前に腹が減っていたらコーンスープを飲んでいる。
ああ、熱湯だなぁ、熱いなぁってまだ感じる。
このケトルだけはこれからも何があっても使い続けよう。毎日お湯を沸かすことで、僕は自分の中の何かを、守り続けられるのかもしれない。
台所は雄弁である。