日曜日、
昨日、都内を歩いていて再認識したけど、今日は東京マラソンがあるらしい。都内中心部は比較的通行止めになるようで、これはウォーキングにも支障が出るだろうなと思って、昨日よりも更に早く家を出た。
想像していたよりは交通規制は厳しくなかったけど、いつもよりも少し走っている車の量は少なかったように思えた。
何にも知らないで運転している人もチラホラいるようで、ものすごい形相で交通整理のおじさんに詰問している運転手もいた。
雲が覆っている寒空の下、イライラを他人にぶつけることで解消している人を横目に、僕は今日は自分の世界に浸ってウォーキングを続けた。
というのも、ピアニストの反田恭平氏のラジオ番組を今朝発見し、過去放送から聞いていたからである。僕は、彼の演奏の大ファンだ。
反田恭平=ピアニスト、としていつも情報を得ているから、彼の日常生活や思考、交友関係など、結構大胆に語られるラジオで、より一層彼自身のファンにもなってしまった。
僕も気づいた頃からずっとピアノを弾いているけど、彼のようには絶対慣れないし、音楽を続けるには本当に経済的余裕、支援が必要不可欠であるということを実感している。だから、自分で進路を決める高校受験で、だいたい音楽の道に進むか、一般の道に進むかはお金の面が影響して別れると思う。
彼がそれなりに裕福な家庭であったことは間違いないが、ただお金を稼ぐために必死に生きている彼の様子が、僕にはとても新鮮に思えた。
普段の何気ない日常に触れると、急に親近感が持てるようになるって本当に不思議だなぁと改めて思う。そして同時に、そんな日常の何気ない1シーンに幸せが詰まっていて、それがなくなると途端に切なくなる、そんな気もする。
そんなことを思っていたら、一つの詩を思い出した。これは、僕が高校生の時に出会って、ものすごく切なさを感じた詩だ。
悲しみは 谷川俊太郎
悲しみは
むきかけのりんご
比喩ではなく 詩ではなく
ただそこに在る むきかけのりんご
悲しみは
ただそこに在る 昨日の夕刊
ただそこに在る ただそこに在る
熱い乳房
ただそこに在る 夕暮れ
悲しみは
言葉を離れ 心を離れ
ただそこに在る
今日のものたち
普段の何気ない生活の中にあるものたち、
本当はそのむきかけのリンゴは、誰かに食べさせるためにむいていたのに、その人が返ってこなかったのかもしれない。
そこに置かれた夕刊は、誰かに読まれるためにあったのかもしれない。
ただそこにあるものが表現する、もうそこに居ない存在
今日のものたちは、いつもと同じようにあるのだけど、あなたはもういない
僕はこんな風に解釈をして、高校生の時に心が絞られるような切なさを覚えた。
反田さんの日常の話から、ちょっと展開が飛躍しすぎたのだけど、ちょうど昨日読了した、荒井裕樹さんの『まとまらない言葉を生きる』の影響もあって、こんなことを考えてしまった。荒井さんの話は、健常者にとっての日常が、障害を持つ人にとっての日常ではないということを、小さな生活の断片から表現して、心が締め付けられた。
おすすめだ。
おやすみ