水曜日、
ルワンダの虐殺の話である。
基本的に毎日聴いている、TBSラジオの明日のカレッジで、ここ最近ルワンダ特集を放送している。
メインパーソナリティーの1人である、キニマンス塚本ニキさんが、現在ルワンダに滞在中とのことで、ルワンダから中継を繋いで現地レポートを届けてくれている。
ルワンダ現地の生活や食べ物、現地のジェンダー平等の話など、とても興味深い内容が多い。その中で、やっぱり無視できないものが、ルワンダの大虐殺の話である。
ネットで調べれば、それは沢山の情報が出てくると思うけれど、生き残った人達のリアルな体験は、そう簡単には聞けない。やっぱりこういう放送は、本当にありがたいと思った。
その中で、自分の弟家族が、当時は敵とされていた民族に殺されてしまった、ローズさんという人の話が出てきた。彼女は、長い長い年月を経て、今となってはその自分の弟家族を殺した殺人者を赦しているとのことだった。
僕はどうだろうか。自分の家族を殺した人を、赦せるだろうか。多分難しいと思う。やっぱり、そう簡単には受け止めることはできないと思う。
ただ、ちょっと視点を変えて思ったことがある。それは、家族じゃなかったらその人を赦せるのだろうか、ということだ。
それと同時に、どこからが家族なのだろう、ということも考えた。
僕は、血がつながっている父親と、育ててくれた父親が違っている。ただ、血が繋がっている父親のことは、自意識が芽生えた時から家族だと思ったことがなかった。
細かくは書かないけれど、
朝、目が覚めた瞬間から、
「早く会社に行ってくれ、夜は飲んで帰ってきてくれ」と思っていた。
そんな父親は、まあ一応生物学的には血縁関係と言えるのかもしれないけれど、もし彼を殺した人を赦せるかと言われたら、たぶん僕は赦せる。
一方で、育ての親を殺した人を赦せるかと言われたら、たぶん赦せない、というか赦さない。
やっぱり、家族と他人との間には、とても大きな溝というか壁というか、バリアとでもいうのだろうか、そういうものがあるんだなぁと思った。
ニュースで他人が殺されても憤怒は覚えないのに、家族が殺されたら怒り狂うっていうのは、不思議だ。
この大きな内と外との違いは、一方で簡単になくなってしまうということも、自身の経験を持って身に染みている部分がある。
家族は強い絆で結ばれている一方で、きっかけがあれば簡単にその紐は解けてしまう。もうすぐお盆休みだけど、家族とは何か、ということを考える休みにできればと。
おやすみ