日曜日、
「平壌で食べた犬は美味しかったな。ちゃんと毛の処理もされていて、臭みもなかった。一方で、サイゴンの犬料理は酷かった。下処理がしっかりしていないから食べれたもんじゃない」
アジアの国々では、犬を食肉として食べる国々がある。これまで出張を含め、幾つかのアジア地域には、訪問・滞在・定住してきたけれど、僕はこの目でその料理を見たことはない。
昔は日本も犬を食べていたけれど、今はほぼ100%食べないと思う。だから、こういう話を聞くと、「ウッ」ってなってしまう。実際に、この話を聞いていた時、口の中に入っていたガムが急激に不味くなったのを覚えている。
ただ、僕が言いたいのは、犬を食べることが動物愛護の観点で良いとか悪いとか、そういうことじゃない。なんで犬を食べるっていうと、「ウッ、、、」てなるのに、牛をはじめとする家畜に対してはそう思わないのだろう、ということだ。
放牧されているのと、されていないとの違い?
平壌や韓国では、実際に食肉用の犬は、飼育ではなく家畜として放牧されているらしいから、これは筋が通っていない?
犬や猫は人に懐くから?
牛だって、殺される時に涙を流すでしょう?僕は上野動物園でバイトをしていたから見たけれど、鶏だって豚だって人に懐いているよ。
だからこれも違うね。
賢いから?
じゃあ、バカは殺していいんですか?
重ねてになるけれど、僕は別に犬を食べることを批判したいんじゃない。どうして犬を食べるのか、その文化で生きる人たちの感覚を知ろうとすることが大事だと思うのだ。もし、あなたが犬を食べることや道徳的に、または倫理的に良くないと思うのであれば、一方的に批判したところで構造的な解決案を提案することはできない。
相手がどんな人であれ、その人に一体何があったのか、どういう中で生きてきたのか、そこに思いを巡らせなければ、何かを変えることの入り口にも立っていないと思う。
ソウルオリンピックの時に、もともと犬を食べる文化があった韓国では、犬肉を提供していたレストランを一斉検挙&追放したことは有名だ。欧米諸国の批判があったらしい。
欧米諸国の言うことを聞くことの背景には、何があるのか。もしかしたら後ろめたいと感じていたのか。こういう背景を知ろうとすることが大事だと思う。
動物の観点でもう一つ。
昨今はあまり見なくなったけれど、動物がメディアで娯楽として利用されることが度々あったと思う。
例えば、「天才志村動物園」。僕は個人的に全然楽しくなかったから見なかったけれど、割と世間とか学校とかで翌日に話題になっていたと思う。
チンパンジーを擬人化させること、洋服を着ない生き物に洋服を着せること、無理難題を与えて(例えば川を渡らせる)、目を潤ませるような演出をすること、人間と長時間共に居させること。
動物は演技は出来ないわけだから、目が潤んでしまうくらいストレスを感じていたわけでしょう。もしあなたがそんな様子を見て、
「頑張れ!」と応援していたなら、あなたは一体何を応援していたの?
人間と長時間一緒に居させると、元々のチンパンジーとのコミュニケーションが取りづらくなってしまう。
志村動物園だけではないよね。
お涙ちょうだい系の動物の映画、動物は演技をしないわけだから、ストレスをかけていることくらいは分かると思うのだけれど、それを見て泣いている観客は何だろうか。
イルカやアシカは、野生ではショーはしない。ある日、人間に保護されて、そこまではいいかもしれないけど
「ショーをしなければご飯あげない」
って言われているとしたら、そのショーを見てはしゃいでいる人は何だろう。
最近、ソフトバンクのCMでも、よーく見るとCGになっている部分がある(ことを願う)から、少しは良くなっているかもしれないけれど、こういう風に動物を利用するというのは何だろう。
繰り返すけれど、別に動物愛護の観点からメディアや水族館などを批判しているわけではない。個人的には、絶対に好きにはなれないけれど、今言いたいのは感情的に批判することではなくて、どうしてそういう構造になっているのか、ということに目をむける必要性だ。
テレビ局の中に一人も反対意見を唱える人がいなかったのなら、それはなぜ?
視聴率絶対主義が動物犠牲を正当化するメディア業界の構造って何?
自分が動物に関わる番組、映画の指揮官だったら、果たしてどうだろうか。
ちょっと立ち止まって考えたら、世の中には、それってなんでだろう?なんかおかしいかも、って思えることが有象無象にある。
真っ向からの批判は建設的ではないし、それじゃあ戦争と同じだ。自分と違う考えを持つ人は、なぜそういう考えを持つに至ったのか、その人が生きてきた、所属している世界の構造はどうなっているのか、こういう風に考える癖がつくといいなぁと思った。
自分自身への自戒も込めて、ここに記す。