HONEST

齢31歳。音声コンテンツ好きの僕が、日々の学びや気づきを、文章とイラストで自由に記録していきます。

8月12日 ”お前はその手で人を殺したことがあるのか”

土曜日、
 

 
「どうして戦争は起きるんですか?」
「普段は人を殺したら罪になるのに、どうして戦争では人を殺しても罪にならないのですか?
 
こういう質問を、子供たちに聞かれたら、なんて答えるだろうか。
 
「資本主義が....。」とか
「国家と国家の資源の奪い合いが...。」とか
「国家の動員が...。土地を取り返すために...。」とか、こんな抽象的な用語や概念を使って説明したところで、理解してもらえないだろう。
 
でも、じゃあもっと簡単に子供達に説明をしようと思ったら、僕たちは説明ができないんじゃないだろうか。
アジア地域の解放とか、民族の防衛とか、平和への脅威に対してとか、こういう抽象的で観点的な言葉でしか、その説明をすることができないと思う。
 
つまりそれは、本当は戦争が起きる、正当的な理由なんてどこにもないということなのだ。
つまりそれは、どんな状況であっても、人は人を殺してはいけないということなのだ。
 
今日読んだ鴻上尚史さんのこの本の中に、その一節のエピソードが書かれていて、ひどく納得してしまった。
平成生まれでゆとり世代と言われ、戦争も経験せずに生きてきた僕にとって、戦争が良くないということは小さい時から言われているから頭では理解できている。
多くの人が犠牲になる、ということも理解できている。
 
ただ、どうして戦争は起きるのか、どうして戦争では殺し合いをしても正当化されるのか、と聞かれると、学んできた知識や事実を積み上げて、それを駆使して説明することしかできない。
そんな、フワフワとした抽象的な話には、何の説得力もないと思う。
 
今起きているロシアとウクライナの戦争、この戦争もどうしてお互いが戦い続けているのだろうか。
 
ロシアにとってはウクライナを倒すことが善意だと思っており、
ウクライナにとってはロシアを倒すことが善意だと捉えている。
 
つまり、善意と善意がぶつかりあって起きているのだと思う。
戦争は良くないということを分かっていても、それを善意として正当化するためには、さっき僕が書いたような、
「~地域の平和のために」
「同じ民族の平和のために」
「国家間の土地が~」
のような、小難しい話をいくつも持ち出して、自分を説得させる必要がある。
そうやって抽象的な観念によって作られた虚像が、善意の戦いとして、戦争を正当化させるのだと思う。
 
プーチン大統領も、ゼレンスキー大統領も、自らが戦争の第一戦線に立って、銃やミサイルを撃ち合ったりした経験は、恐らくないはずだ。
 
つまり、自分自身の経験から生み出される具体性が、彼らの説明には一切欠いているのだと思う。
 
ロシアとウクライナだけじゃない、日本だって過去には戦争をやってきた。
ユダヤ人が大量にアウシュビッツで虐殺された。
ルワンダでは民族間の虐殺が起きた。
カンボジアでは政権による民間人の虐殺が起きた。
 
何かしらの抽象的な観念やプロパガンダによって、正当化されて起きてしまった惨事だ。そして、今でも人によっては虐殺や戦争を正当化するような発言をする学者や人々さえいる。
 
ただ、そういう人に対して、戦争経験者が、
「お前はその手で人を殺したことがあるのか。戦争や虐殺に何の正当性もない」
と具体的な体験を持って迫られたら、そこには何の反論の余地はないと思う。
 
肉を突き刺す感覚や、血が噴き出す瞬間、その匂いと叫び
 
こういったことを、経験したくもないのにしてしまった人から発せられた具体的な言葉には、私たちはひれ伏すしかない。
 
「戦争とは国のために死ぬことではなく、国のために人を殺すことである」
 
鴻上さんが書かれているこのメッセージ、実際に人を殺すしかなかった当事者じゃなければ語れないだろう。もちろん、鴻上さん自体戦争経験者ではないけれど、こういう言葉を文章にして残してくれること自体が、尊い
 
あと数十年したら、日本から具体的な戦争経験者がいなくなる。その時にどんな社会になってしまうのか。考えたい。