水曜日、
午後のスケジュールは、その週ごとに違うのだが、今日は13時~18時半まで喧々諤々と現在の課題議論するキャンプなるものが行われた。
こういう時、僕はだいたいテンションが上がってしまう。そして昼休憩どころか、ランチさえも抜いてしまう癖がある。何といえばいいのか、ちょっと難しいのだが、下手に少し休憩をすると逆に疲れてしまう、眠気が襲ってきてしまう、そんな感じだろうか。
やるべきことがたくさんあり、それを淡々とこなしている自分に自己陶酔しているのだと思う。
「こうやって日々仕事に向き合っていれば、きっと実力や勘が身について、成果を上げることができる、だからこんなに取り組んでいる自分えらい」
そんな風に自分に酔っているのだと思った。そこには、純粋にその努力を楽しんでいるという幸福感や夢中になる感じはないのだ。
そこで、ふと考えた。
時間や労力を費やすことと、その分成果が出るということは、イコールで結びつけていいものだろうか、。
例えば、どれだけ楽器の演奏をしたとしても、ある程度から上のレベルに行くことは難しい。YouTubeとかでストリートピアノを弾いている人達も、もちろん見えないところで相当な練習をしていると思う。ただ、どちらかと言うと彼らにとって、ピアノを練習することは努力というよりも、楽しんでいるという方が近いのかもしれない。
つまり、正しい努力というのは、辛いとか、それから「自分頑張ってる」といった自己陶酔云々の前に、純粋にその練習や行為をずっと練習してしまう、無意識的にずっと取り組んでしまう、というそういうものなのではないかと思った。
多分、辛いだとか、大変だとか、そういう風に思っている間は、正しい努力ではなく、あまりコスパの良くない努力なのかもしれない。
今日の自分の状況で考えてみると、目の前のタスクを黙々とこなしている自分が偉いと思っている時点で、それは正しい努力ではなく、単純に盲目的に作業をこなしているにすぎないのだ。
そんな自己陶酔を続けるよりかは、自分がついやってしまうことって何だろう、自分が楽しめるものって何だろうという分野を探して、それに取り組んでみることが大事なのかと思った。
そういう意味で、努力は努力をしていると自覚した時点で、努力ではない、ということが言えると思った。
最近読んだ、中野信子氏の『努力不要論』の内容と、今日の自分の働き方とが、結びつき、こんなことを妄想した。
おやすみ