水曜日、
実は、今日は朝から憂鬱だった。いや違う、昨夜から憂鬱だった。
それは、職場の同僚たちと、ランチをする予定があったからだ。今日で最終出社のチームメンバーがおり、お別れ会を兼ねたランチをすることになっていたのだ。
こんなこと言うと、不謹慎だとか、優しくないね、とか言われてしまうかもしれない。ただ僕にとって、ある程度の人数で一つのテーブルを囲み、談笑しながら食事をするというのは、とてもストレスがかかることなのだ。
僕は、人とのコミュニケーションが得意な方ではない。コロナ禍を経て、不要不急の代表格でもある雑談をする機会が減り、更にコミュニケーションが苦手になった。
「相手が言ったことに対して、どういう風に返してあげれば、相手は気持ちよくなるんだろう」
「ここは嘘をついて場を盛り上げた方がいいのか、それとも事実を述べた方がいいのか」
「そもそも、この会話自体、相手は楽しい思っているんだろうか」
考えだしたら際限なく不安が溢れ出てくるイメージだ。なぜか初対面の人とやり取りをするときは、こういった不安は全く出てこない。恐らくそれは互いに双方のことをあまり知らないから、会話がつまらないもなにも、知らないことを知ろうとしているだけのこと。
今日みたいな、ある程度関係性のある人たちとのコミュニケーションに、とても苦手意識を持っているのだ。
ただ、実は今日ちょっとだけ、ほんの少しだけれど、会話がスムーズに流れたなぁというタイミングがあった。
転職で大阪に引っ越してしまう退職予定者に対して、大阪出身のメンバーが
「大阪行ったら、うまくぼけたり、つっこんだりしないと、どつかれんでー」と返答。
僕は全然無自覚だったのだけれど、絶対そんな環境じゃ生きていけないなぁという心の声が出てしまったのか、
「そんなところじゃ、私絶滅しますね。30分で十分です」とボソッと言いながら、この発言をしたメンバーをじっと見てしまった。
すると、
「確かに、〇〇君じゃ無理やなぁ」という発言や、
「まるで、異世界の人見るような目で見るんじゃないの(笑)」
「でも、大阪にだって、〇〇君みたいな、話しをじーっと聞いてくれる人必要やねんで」
みたいな感じで、会話が盛り上がったのだ。
いつもそうとは限らないけれど、自分が思ったことは、そのままストレートに伝えてもいいんだぁなと思った瞬間だった。
大体の場合、僕は、自分の気持ちを脳内の翻訳機にかけてから、音として言葉にしているのだ。
でも、なんで毎回そんな翻訳しているのだろう。ちょっと考えてみた。
多分だけれど、
「~を言ってみんなから嫌な風に思われる”私”」
「~を言って、つまらないと思われる”私”」
「~を言って、周りから面白いと思われる”私”」
「~を言って、”私”自身が傷つかないか、心配」
いっつもカメラが自分の方に向いていて、こういったら”自分”がどう思われるだろうと、そんなことばっかり考えていたからではないか、そう感じた。
自分、自撮りしかしてないじゃん、と。
もっと俯瞰して見たら、この会話自体の登場人物は数人いて、私なんてその中の一人にすぎないんだから、私自身にそんな注目していること自体がおかしいのだ。
ああ、自分に向いているカメラを、外側に向けよう。
インカメを通常のカメラに戻そう。
なんなら、上からの俯瞰でアングルを組もう。
ちょっと意識したい。