土曜日、
今日は、僕が小さい頃からよく感じている違和感について、書きたいと思う。
違和感について書こうと思ったのは、9月から入会しているフライヤーブックラボで投稿された、コピーライター阿部広太郎さんの音声記事。
9月から月に1回、自分のおすすめの書籍を紹介する記事として、阿部さんは音声を投稿されている。
ただ本を紹介するだけでなく、毎回問いを投げかけている。
今回の問いが、「自分の中にある違和感、もやもやすること、なかなか言葉にするのが難しいことは何か」ということだった。
僕が強烈に違和感を覚えるのは、
「~として」という言葉だ。もう少し丁寧に説明すると、~としてという枠組みで語られることに強烈な違和感を覚える。
最初に強く違和感を覚えたのは、中学生の時。当時、まだ一緒に暮らし始めて間もなかった新しい父親に
「男としてそういうことを言っちゃいけないんだ」と言われた時に、
全身に鳥肌が立ったのを覚えている。
男としてってどういうこと?
じゃあ、女として、と言う風に使う時は、それは何を意味してるの?
当時は問い詰めることさえできずに、暗澹たる気持ちが体中を駆け巡って逃げ口を探していた。
思い返せば、僕は小さい時から、いわゆる「普通」「規格内」というところから、外れていた。
まず、女性にも男性にも恋愛感情を抱かない。
僕や俺、私という一人称を使うことができなかった。
中学生まで巨漢で、ユニクロみたいなお店にも洋服がなく、全て特注だった。
途中でシングルマザー家庭となり、親が2人いる家庭というのが分からなかった。
姓が通称と正式なものと、二つあった。
とにかく、いわゆる普通のところからはだいぶ外れたところにいたから、世の中的な規範や価値観で「~として」と言われて括られることが、本当に気分が悪かった。
そこから解き放ってくれたのは、やっぱり音楽や美術だったなぁと、今考えると思う。
自由に表現することがとても楽しかったのを覚えている。
この、「~として」で括られることに対する違和感は、それからずっと、そして今でもずっと僕の中に残っている。
〇〇大学の生徒として、とか
新入社員として、とか
〇〇社の一員として、とか
マーケターとして、とか
リーダーとして、とか。
その「として」が示す模範像とは、一体なんだ?
本当にむさ苦しい。
でも、社会人になってから分かったこと。それは、いちいち引っかかっていると、生きづらいということ。
そして面倒くさがられるということ。
さらには、周りから人がいなくなっていくということ。
僕はお金を稼がないといけない。ちゃんと会社で成果を出さなきゃいけない。
身に着けた術は、違和感の反対、つまり、あえて「~として」を意識することだ。
つまり、世の中の常識、規範のど真ん中になることだ。
没個性だ。
なんだこの矛盾は、と書きながら覚えている。
自分でもどうしようもできなくて、もやもやしている違和感、これが今回のお題だったけど、違和感を覚えているイメージに自ら接近しているという違和感、これが私が抱える違和感なのだ。