月曜日、
僕が自信をもって自分の強みだと主張できること、その一つが、食べ物の好き嫌いがない、ということだ。
もちろん、選べるなら食べたくない、という食べ物はある。でも、絶対に食べられないというものはない。
桃系の果物を食べると、口の中が痒くなってしまうということはあるけれど、それも食べて数分で収まる。風味以外に、アレルギーの観点でも食べられないものがない。これは自分の大きな強みだと思う。
こんなことを考えたのは、このポッドキャストの放送を聞いたからだ。
給食の苦い記憶について、パーソナリティの2人が語り合う放送回。給食がいやで、弁当持参の国立中学を受験したらしい。
確かに、給食は嫌いなものや食べられないものが多い生徒にとっては、屈辱的な時間だったと思う。
そして、なぜか完食が正義とされていた記憶があるし、なんかクラス対抗で残飯の少なさを競うみたいな、そんなこともあったような気がする。
もともと小食な生徒もいれば、乳糖不耐症の人だっているし、どうしても生理的に苦手な香りがある生徒だってきっといたはずだ。
それなのに、克服させようとして無理やり食べさせる、食べ終わらなければ一人永遠に給食が終わらない、そういうことってあったと思う。
僕の場合、小学校よりも幼稚園の方が厳しかった。水曜日と土曜日は幼稚園が午前中で終わり、帰る前におやつの時間があった。おやつと一緒に必ず牛乳が出されるのだが、これが飲み終わらないと、何時までも帰れない。
夕方になっても夜になってもだ。今考えたらちょっと虐待っぽいけど、当時はそれが当たり前だったのかもしれない。
いま大人になってみて、食べられないものが全くないことで、とても生きやすいと感じている。
それは、基本どこの国に行っても何でも食べられるし、料理をすることが億劫に感じないからだ。そして、だれかが料理を作ってくれる時は、とても楽だと言われる。
でも、好き嫌いが多くても死ぬことはないし、克復の過程でトラウマになってしまうこともある。
大人になると味覚は変わると言われているし、実際にそうだと思う。小さい頃は、青臭いとしか思わなかった野菜が、今となってはむしろ美味しいと感じる。苦味への許容範囲も広くなっていると思う。
ただ、もう一個ポッドキャストを聞いてみて、ふと思ったことがある。それは、自分自身の味覚が変わっている可能性もあるかもだけど、同時に食べ物の方も進化しているかもしれない、ということ。
昔から続く変わらないこの味、そういう風に謳っている商品は沢山あるけれど、実は絶妙に品種改良や商品改良を加えて、その味を保ちつつ、さらに旨味を増やしたりしているのだ。食品に限らず、飲料や、それから農産物だって品種改良している。
もともと100年以上続く食品メーカーに勤務していた僕は、この放送を聞いて、ああそういえばそうだなぁと納得した。
変わったのは自分じゃなくて、周りかも?
少なくとも、自分も周りも変わるんだから、辛い思いして克服するってこと、もう今の時代必要ないんじゃない?
食べ物も、人間関係も。