日曜日、
「どうして僕たちは生まれてきたのだろう」
「どうして学校に行かなければならないのだろう」
「神様は本当にいるのだろうか」
「性格がいい人とはどういうことなのか」
「センスがいいとはどういうことなのだろうか」
「他人の人生を歩めないのはなぜか」
「友達の定義とは?」などなど。
普段生きていて、当たり前のように存在していてるから決して疑わない。でも、ちょっと立ち止まって考えてみると、一つの解を導くのが結構難しいという問いが、僕たちの周りにはたくさん存在している。
こういう問いの面白いところは、唯一絶対の答えがないというところだ。だから、知識や経験に関係なく、どんな立場の人にも平等に開かれている。
答えのない問いに出会った時、僕らがやること、それはまず自分自身で深く考えること。そして、その考えをシェアすること、つまり対話だ。その時に、決して他人の意見を否定しない。だって、正しい答えなど存在しないのだから。でも同時に、
「それって結局人それぞれだよね」と言う風にも終わらせない。それは、考えることを辞めることを意味する。
確かに難しく深い問いだとは思うけど、だからこそどのような立場の人が相手でも、対等に意見を交わすことができるだろう。相手が家族だろうが、恋人だろうが、上司だろうが、総理大臣だろうが関係ない。究極的に平等な問いだと思う。
僕がこういう問いが面白いと思ったのは、小学生か中学生の時にやっていたドラマ「女王の教室」で、天海祐希演じる悪魔の女教師と生徒たちのやり取りを見ていた時だ。
「どうして人を殺してはいけないんですか?」という生徒からの問いに対して、「想像できないなら他人の痛みを知りなさい」と首を絞めつけた教師。僕はこれを見たとき、自分が生きている間に経験できないことを他人に強いるということは、やってはいけないことなのかもしれないと、そんな風に感じた。
「どうして勉強しなければいけないんですか?」と生徒から問われた時、「勉強はしなくちゃいけないものではありません、したいと思うものです」と答えていたのを聞いて、インフルエンザで寝込んで1週間学校に行けなかった時の悲しみを思い出した。今考えると、勉強したいと思うほどの境地に辿りついていなかったのだけど、学びたいと思うのは、一生懸命学んでいるからなんだなと今は逆説的に考えている。
こういう問い、僕は大好きだ。もともと、小学生の時から道徳の授業や、読書感想文、そして人権作文を書くことが好きだった。
知識も経験も見た目も年齢も性別も関係なく、思ったことをストレートに表現できるからだ。
社会人になって、ストレートに表現できることができない場面が多い。
〇〇部長という肩書きを目にすると、途端に忖度が始まる。
〇〇賞を受賞した経歴の持ち主、とか言われると、たとえ提案内容が自分に響いていなくても、なんだか良い提案内容に聞こえてしまうし、怖気づいて意見がいえない。
そうやって疲弊していってしまう。
今はまだ2月だけど、もう春夏のプロモーションの準備に取り掛かっていて、広告代理店とWebCMや電車内広告、ビル広告などについて協議を始めている。今回、一緒に取り組む代理店さんを変更して、クリエーティブディレクターも新しい人がアサインされた。
先週の初回のカジュアルディスカッション時、僕は結構思っていることをバンバン言った。納得いかない点、こういう風にも考えられるんじゃないかという点、などなど。
でも今日、僕が月に1度読んでいる雑誌の『宣伝会議』と『ブレーン』に、その人が複数回に渡って取り上げられているのを知った。その途端、自分の発言を恥ずかしく感じてしまう自分がいた。
ああ、こういうこと抜きに、くそ真面目に、時にはトコトン阿保に、対話できるようになりたいなぁと思うこの頃だ。
ここ最近、哲学者で哲学対話を提唱されている永井玲衣さんのポッドキャストや、Audibleを聞いていたからこそ、余計このギャップにノックアウトされてしまった。