日曜日、
役に立つ人って何を指すのだろう。
価値がある人ってどういう人のことを言うのだろう。
理想論を振りかざせば、こんな感じかな。
「役に立たない人なんていない。ある人にとっては、あなたは何の役にも立たないかもしれないけど、別のある人にとっては、あなたは居てくれるだけでありがたい存在。あなたは約に立っている人だよ」
もちろん正論だし、僕だってそういう風に思って生きている節はある。
でも現実は違うよね。
誰かとの関係性が生まれた瞬間から、そして所属するコミュニティ、社会が広がれば広がるほど、その関わりの中で、自分は役に立っているのだろうか、自分の存在意義って何だろうか、と感じることは多いはずだ。
小さいところでは親子関係から、広く語ればこの日本社会まで、見えないけれど確実にあるそういう靄みたいなものが、薄くでも丈夫な繊維のように漂っていると思う。
優生思想という言葉がある。この言葉の憎いところは、絶対値的に単独では定義が出来ないことだと思う。優れた人間に対して劣った人間というものがおり、その劣った人間よりも優れた人間に価値がある、という考えだ。比較しないと定義できないことが、憎たらしい。
「あなたは私よりも劣っている」
この言葉は、倫理的にも、道徳的にも決して他者に対して投げつけてはいけないと思う。
でも、どこか心の片隅でそういうことって思ってないだろうか?
健康的で、頭も良くて、性格も良くて、運動も出来て、美男・美女で。これってそうじゃない逆の対象が少なからず脳内でイメージできるから、だからそう思うんだと僕は思う。
もし、自分が想像しているその逆のイメージが、どこか自分の中にもあるように感じられる時、自分自身に少なからず劣等感を抱いている時、不安で恐怖でたまらなくなると思う。
早く、
早く、
早く、役に立つ人間にならなくちゃ、早く価値がある人間にならなくちゃ。
そう思った人間が手っ取り早く役に立てるためにできること、それは役に立たない人間を抹消することだと、まるで物語のような話だけど考える人がいるかもしれない。
いや、そう考える人がいる。それが、相模原殺傷事件で多くの入居者を殺害した植松聖死刑囚である。彼自身が精神的におかしいということもあると思うけど、そういう彼の歪んだ思想を作り出したのは、だれも言わないけど濃く深く蔓延っている優生思想と、それを携えたこの社会だ。
じゃあどうすればよかったのか、情けないことに、今日1日考えたけど答えが出ない。でも、私だって、あなただって、植松死刑囚になりえるということは、ちゃんと理解しておいた方が良いと思った。
今朝、このvoicyを聞いて、それから予告編を見ながら、そんなことを考えた1日だった。