土曜日、
以前はAudibleで耳読する本といえば、ビジネス系の本がほとんどだった。専門用語やちょっと分かりづらい言い回しも結構多くて、自分が元気なタイミングじゃないと、読んでいても全然頭に入ってこない。特に、海外の著者が描いたような翻訳本が一番辛くて、日本語に直した時の独特の言い回しが、余計に僕の理解を妨げるようだった。
だから、朝のランニングをしながら、家事をしながら、会社に行くまでみたいな隙間のながら時間では、耳読としてビジネス書を聞いていた。
それが最近は、もっぱら小説やエッセイになっている。耳でさえも、込み入った話を聞くことが辛くなっている、それくらい今の自分に余裕がないということなのだろう。
そんな中で聞いた、吉本ばななさんの『幸せのへのセンサー』。実は既に耳読了しているのだけど、何度も聞きたくなる一冊である。
個人的にとても好きな千葉雄大さんが朗読を担当されているのも、とても大きい。
この放送を今日改めて思い出したのは、朝日新聞ポッドキャストのこの放送を聞いたからだ。朝日デジタルの方でもずっと連載されていた「スポーツと暴力」、これを書いてきた記者の方が登場された回である。
「お前らは所詮脳みそは空っぽなんだから、体で覚えないと分からないだろ」
「叩かれるのが嫌なら覚えろってんだよ」
部活の顧問やコーチから実際に罵倒され、体罰を受けてきた生徒たちから出てきた証言に基づく発言録である。
暴力に及ぶ時、それは自分の感情や言いたいことが、うまく言葉で伝えられない時だと思う。小さい子供が、モノにやつ当たりしたりするのが、その典型的なものだろう。
100歩譲って、モノを壊すならまだ赦せる。ただ、人間や生き物に暴力を奮うことは、絶対に許されないと思う。
「今から数十年前はねぇ、先生が生徒を殴るなんて当たり前だったんだよ」
「体育の先生は、いつも竹刀を持って何かあるとすぐに叩いてきた、でもそれが当たり前だったんだよね」
よくこういうことを語る人がいる。何が言いたいのだろう、と僕は思う。だから暴力もたまには大事だよって言いたいのだろうか?
過去に留まるタイムマシンみたいなものがあって、その人だけまだ過去にいる。その世界の常識では、暴力もまだまだ正当化されている。暴力=愛のムチとして認知されている。そういう時代に留まっているんだろうか。
当時と今とでは時代は大きく変わっていて、つまり常識や当たり前も大きく変わっているのに、その人だけアップデートされていないのかなって思ってしまう。
でもきっと、過去に暴力を振るわれたことがある人ほど、こういう発言をするんだと個人的には思う。僕の実の父がそうだった。実の父方は岩手の田舎出身で、体罰は当たり前みたいな環境で成長してきたらしい。だからすぐ殴ったし、お皿をわざと割ったし、嫌がる母を押し倒したりしていたし。
暴力は、非暴力者を過去に繋ぎ続ける鎖、過去から逃がさせまいとさせる寸胴のような重しだな、と感じる。
ぶったり蹴ったりされたらされた分だけ、普通の何十倍、何百倍の重力を感じるようになるんじゃないだろうか。
そんな重い体じゃ、もう起き上がれないよね、、、。重い体は起き上がれなければ、もう鎮めるしかない。そうやって自死を選ぶ人が後を絶えないのだ。この朝日新聞の連載でも、コーチの暴力によって追い詰められて、最後は自死を選んだ高校生のことが鮮明に書かれていた。
そんな放送を聞いた後で、冒頭の『幸せへのセンサー』で紹介されていたエピソードを思い出したのだ。
奈良の龍泉寺にある「なで石」について。撫でてから持ち上げれば軽くなるし、叩いてから持ち上げると重くなるというのだ。
これはあくまで石の話だけど、人間にだって同じことが当てはまる。
なでて育って行けば、心も体も軽くなって明日に向かってまた頑張れる。
暴力を振るわれて育てば、体の傷による物理的なだるさだけでなく、希望を失った重い心が残る。
そして、吉本さんが言っていたのは、「これは自分にも当てはまるよ」ということ。
他人を撫でる、他人を叩くということ以上に、自分に対しても同じように考えてみようと。自分を叩くように生活していたら、気づかぬうちに体は重くなって、最後は立ち上がれないかもしれない。反対に、自分を撫で撫でしてあげれば、きっと体は軽くなる。
そして他人にも優しくなれる。
今の自分はどうかな。。。
うーん、この年明けのタイミング。結構考え時かもしれないと思った。