土曜日、
「家族の絵を描いてください」と言われたら、どんな絵を描くだろうか。
僕の場合は、自分が小さかった時と今とでは、描き方が違うと思う。
小さかった頃、だいたい小学校低学年くらいを想定しているのだが、当時の僕だったら間違いなく
「父親、母親、姉、僕、猫たち」の構成で描いたと思う。日本社会においては、ものすごく理想的、一般的な家族構成だと思う。でも、本当は父親が欠けていた。いや、存在はしていたが、本当に嫌いだったし、数年後は母も父と離婚することになったし、そういう状態だった。
でも、同じ地域の子供たちが集まる小学校いみたいな世界コミュニティでは、そう描かざるを得なかった。一つには、それが当たり前だったからだ。もう一つには、その当たり前のせいで、自分の理想は父・母がちゃんといるという家庭だったからだ。
でも、今改めて家族の絵を描いてと言われたら、僕は
「母とパートナー、姉、僕、猫たち」という風にするだろう。母のパートナーは、母にとっては夫ではあるけれど、僕にとっては父というよりも、何でも相談できる男性、という感じである。だから、最初は彼が家に入ってきた時は、それはそれは衝突したけれど、今は社会人の1人として、超零細企業だけど一応社長として、尊敬できる大人である。
当時は、自分に親が欠けていること、新しい大人と暮らし始めること、それに伴って引っ越したこと、姓を変えたこと、二重姓を使うこと、全てが一般ルートとは外れていて、心地悪かった。でもそれは、その反対、つまり「親は2人で異性の男女であること、姓は変わらないこと、親ずっと変わらないこと」が一般的な社会であるからこそ、であると思う。
窮屈だった、だから僕は、早く地元を、そして日本を出たいと思って、高校の時は英語を徹底的に勉強し、絶対大学は東京に行く!と決めてやってきた。
なんで、こんなことを久々に考えたか。それは、このポッドキャストを聞いたからだ。
アメリカでは、3人親が認められている。スラプルという3人カップルを表す言葉さえ存在している。このポッドキャストで紹介されていたスラプルも、男性3人でそれぞれが互いに愛しあっている。そこに養子として1歳の女の子がやってきた。
知らなかったのだが、アメリカでは約半数が生みの親と育ての親が違うらしい。
「家族の典型例」なんてものは存在しないのかもしれない。
オランダには、親ではなくてボランティアの大人が他人の子供に色々と教える「バディー」という制度が法律で定められているらしい。法律なので、利用にコストはかからない。なんて素晴らしいのだろう。子供に指導をするのは、いつも親、先生みたいな凝り固まった考えからは、とても遠いのだ。
自分がこの日本という社会で育ってきたから、家族の典型的なスタイルみたいなものに縛られてきただけで、やっぱりこの世界は広い。別に、男性・女性という親の構造が悪いというわけじゃないし、それが一番バランスは取れていると思う。
実際、オーディブルで、ジェーン・スーさんのエッセイ「生きるとか死ぬとか父親とか」を耳読して、母親に対する思い、父親に対する思いを感じながら、なんだかあたたかいなぁと思ったし。
僕自身、異性に恋愛感情を抱かないから、きっと家族を作った時、この日本という社会に居る限りは圧倒的なマイノリティに属することになるんだと思う。以前住んでいた、フィリピン、タイ、カンボジア、こういう国々も、もちろん日本と同じような家族観は確かにあった。でも、もっと多様だった。安定していないからね。
やっぱり僕は将来海外に行きたいなぁと思ったけど、こうやって発信することで、少しでも日本が多様な家族のかたちを受け入れるように変わっていけばいいな、と思った1日だった。