日曜日、
月曜日から土曜日まで、この1週間はとにかく仕事が忙しくて、しっかりとPodcastを聞く時間がなかった。少し時間がとれた今日、早速溜まっていたPodcastを聞いた。
今日紹介したいのは、このエピソード。
ご自身が性加害の被害者でもある江向記者は、過去に自信の体験や、取り組んできたことに対してPodcastで語ってくれたことがある。
それに対して、ある視聴者の方から届いたコメント。
「マスメディアは、何一つ学んでもいないし、改善されてもない。BBCにただ乗りする己を恥じろ。権力にものも言えないで己の立場を絶対に脅かさない。助けてと言えないかわいそうな誰かを使って、マスタベーションするな」
僕はこのコメントを聞いた時に、正直唖然としてしまった。
まず、主語がデカすぎる。
江向さんは朝日新聞の社員ではあるが、マスメディアの代表ではない。一方で、このコメントは、あたかも江向さんをマスメディアの代表であるかのように捉え、明らかに攻撃をしかけている。
巨大な主語と一人の個人。この立場が全く異なる2つを同じ土俵で比較すること自体、大きな間違いであると、私は思っている。
もちろん、意見は自由だ。でも、まずは前提を揃えないとフェアじゃない。
そして、このコメントは、まるで言刃(ことば)のように感じられた。
誰だって個人的な辛い経験を、誰かにシェアすることは容易なことではない。過去の思い出を蒸し返すことにもなるから、できれば黙っていたいと思うのも事実だろう。でも、自分が語ることによって、だれかの気持ちが軽くなるかもしれないし、だれかの命が救われるかもしれない、そう思って、これまで纏っていた鎧を脱いで、無防備な状態で語ってくれた。それが江向さんなのだ。
丸裸で脆い状態。これまでは、両手を握りしめて、胸の前でバッテンで腕を組んでいたその両腕を、今回解きほどいてくれたのだ。
その広げた胸に対して、思い切り振り落とされた、まるで鋭利な鉈のような言刃。それが今回のコメントだと思った。
表現は自由だ。言葉は自由だ。でも、確実に自分よりも弱い立場にある、脆い状況ににある相手に対しては、言ってはいけないことというものがあると思う。
僕は、広告に少し携わる者として、言葉を使って仕事をする人間として、こういう行為は赦せない。
今回、辛い思いを握りしめながらも、視聴者から届いた嫌がらせとも捉えられるようなコメントを紹介してくれた江向さん。まずそのことにお礼を言いたいと思う。
本当にありがとうございます。
何も言えなくて悩んでいる人、絶対にいると思うから、僕は江向さんの意見や行動を応援していきたい。僕も、自分の悩みを打ち明けることができるようになってきていて、間違いなく朝日新聞ポッドキャストに影響されている。
でも、だからと言って、これからも江向さんに発信し続けて!とは言えない。
それは、江向さんだけを盾にして我々は援護射撃をしているような体制をイメージしてしまうから。
語りたいと思ってくれた時に、そこに賛同する人、救われる人はいるということは事実。だから、江向さんの語りたい時に、また語って頂けると嬉しいなと思う。
ちょっと話が飛躍するけど、
言葉はその漢字の通りに、葉っぱだと思っている。
葉っぱは、木々にくっついていて、木々はそれぞれ独立している。言葉たちによって、木々の輪郭が形成され、それが1本の道に、まるで街路樹として連なって立っているようなイメージがある。
どの木が好きかは人それぞれ。
好きな木を見つけたら、その木陰で休めばいいし、興味がない・気に食わないなら、攻撃せずに通りすぎればいいだけ。
江向さんの言葉が作りだす葉っぱとその葉っぱによって作られる木、そこに寄りかかって休む人もいれば、水を与えてくれる人もいる。
それと同じように、僕が、あなたが作り出す葉っぱと、その葉っぱによって作られる木、その下で遊ぶ子供たちもいれば、登ってくる人もいるかもしれない。
伐採する人がいるかもしれないけど、きっと遊んでいた子供たちが駆け寄ってきて、それを阻止してくれるだろう。
だから、僕はこれからも、自分の気持ちを発信し続けたいと思う。
言刃ではなく、言葉として。