HONEST

齢31歳。音声コンテンツ好きの僕が、日々の学びや気づきを、文章とイラストで自由に記録していきます。

1月28日 感性のままに

日曜日、

 

 

「名前も、性別も、年齢も、肩書きも、文字表現も一切使わずにに自己紹介をしてください。」

 

もしこのように言われたら、あなたはどのように自分自身を紹介するだろうか。

ある人は、自分が好きなものを徹底的に紹介することで自分を紹介するかもしれない。またある人は音楽で表現するかもしれない。絵の人もいれば、歌の人も、もしかしたら何か寸劇などで自分を表現する人もいるかもしれない。

自分の思っていること、考えていることが相手に伝わるようにしっかりと言語化すること、これは社会人であれば必ず問われることである。たが、言語化することによって、失われてしまうことも少なからずあるのではないか。

「言葉に出来ないこの思い」みたいな歌詞があったり、

「松島や、ああ松島や、松島や」に代表されるように、目の前に広がる光景をうまく表現できないことも、実は結構あったりする。

 

本当に自分の心に訴えかけてくることや、心の底から感動を覚えているものに対しては、むしろ言葉で表現すると逆にチープになってしまうのではないだろうか。

 

それでも私たちは言葉で伝えるように求められる。更に、そこに数字が付け加えられると、途端に説得力が増すようになる。起承転結という法則に従って、更に定量的なエビデンスもつけた瞬間に、一気にあなたの主張は論理的になる。でも、それによってそぎ落とされてしまった本当に感じていることも絶対あると思う。

小さい時は、その時に感じたこと・思ったことを、整理せずに吐き出しても良いとされていた。自分の感性のままに表現しても、全然問題なかった。しかし、成績が付け始められる頃から、私たちは言葉で自己表現をするように、無自覚のうちに強制されている。そうでもなければ、評価者は私たちをジャッジできないからである。

 

このスーパーファストな時代、「分かりやすさ」「効率性」が常に求められるから、とにかく誰が聞いても、誰が読んでも分かるようなそんな文字表現が求められる。そして、肩書きや年齢・性別という枠組み情報によって、どのように表現すべきかを瞬時に判断する。

 

果たして、そこに感性はあるのだろうか?感性は死んでいないだろうか?

 

改めて最初の問いに戻る。

「名前も、年齢も、性別も、肩書きも、文字表現も一切使わずに、自己紹介をしてください」

さて、何人の大人が自分が思う通りにできるだろうか。恐らく、ほとんどの人が口ごもってしまうと思う。ペンを持つ手が止まってしまうと思う。

 

Voicy界隈では非常に有名なパーソナリティである尾石はるさんが、感性的読書会という講座を、本の要約アプリで有名なフライヤーのブックラボというコミュニティで開催する。僕も会員だ。その紹介も兼ねて、荒木マスターのVoicyにゲストとして参加し、話されていた内容を今日聞いた。その後、上記の通り色々と考えてしまったのだ。

voicy.jp

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実は中学生の頃、美術の課題で「あなた自身を表現してください」というお題が出たことがある。中学3年生の夏休みに入る前最後の課題だった。条件は1つだけ。必ず自分自身の自画像デッサンを入れること、以上。

 

この課題、今でも覚えている。僕は三角柱を逆にした柱のようなものを、何十本も書いて、その中の一つが自分自身の頬に刺さっている、という絵を描いた。僕が流す涙で湖が出来ていて、そこに幾つかの三角柱がプカプカ浮いている。鋭利な先っちょは湖面の下に入って見えないような、そんな情景を描いたのを覚えている。

 

当時は、家庭環境がガラリと変わったり、名字を突然変えなきゃいけなかったり、引っ越して越境通学になったり、、、とにかく鋭い何ががたくさん自分の周りに存在していいて、そこから逃げられないみたいな、そんな感覚を抱いていた。それをストレートに表現したのである。

今考えると、これはまさに感性的な自己表現だったのかもしれないと、今日の放送を聞いて考えた。

 

今、自分自身を感性に従って表現しなさいと言われたら、どのように表現するだろうか。

皆さんならどのように表現しますか。