HONEST

齢31歳。音声コンテンツ好きの僕が、日々の学びや気づきを、文章とイラストで自由に記録していきます。

2月17日 才能ではない

土曜日、

 

 

「毎週金曜日の生徒たちはさ、なんだかみんなやる気ないんだよね。正直、教えてる側としても呆れちゃうよ」

ピアノの講師をしている母からの、今朝届いたLINEの文面の一節である。全くピアノの練習もしてこないし、練習をしてこないことが悪いことだとも思っていない様子らしい。

よくよく話を聞いてみると、

・リビングが1階にあり、ピアノは2階にあるということ

・ピアノの上には荷物が色々と置いてあり、一種のインテリアというか、むしろ棚のような状態になってしまっているとのこと。

 

じゃあなんでピアノを習いに来ているの?というところが普通に疑問なのだけれど、それは親の指示だという。まあ本人も、ピアノ弾けたらいいなとは思っていたとのこと。

 

どう考えても、その親御さんは間違いなく楽器の経験がないのだろう。もしあったとしても、それは誰もが経験するようなビジュアル系バンドへの憧れから、エレキやアコギを手にするくらいのものではなかったのだろうか。

 

音楽や美術や才能のある・なしが、どうしても影響してきてしまう世界だと思う。でも、僕が思うのは、それは最後の一線の領域であるということ。同じように練習をして、同じように努力をした時に、最後に一歩先に出てしまうのは才能がある人だと思う。でも、そこに至るまではある程度は努力でカバーできる部分があると僕は思っている。

だからと言って、じゃあみんな努力すればいいじゃん!と言えるほど簡単なことではないことも分かっている。

 

芸術分野での努力に必要な要素は、個人的には大きく分けて三つだと思っていて、一つは自己効力感、もう一つは心地良さ、そして最後は理想のイメージだと思っている。

 

めちゃくちゃ簡単に言うと、「え、自分もできんじゃん。やれんじゃん自分」という感覚。これが自己効力感(と勝手に理解している)。もちろん、乱暴な演奏はNGだけれど、基本的にはどんな演奏だったとしても、まず音が出せているということだけで素晴らしい。そして、今度はその音を繋げて曲に出来るなんて、なんてすごいことなんだろう。それを聴いた周りが、演奏を褒めてくれる、感想を言ってくれる。

「なんだ、自分できんじゃん」が生まれる瞬間である。これが土台。

 

心地良さ。これは逆をいうと、欠けてしまうと気持ち悪くなってしまうということ。僕の場合、クラシックピアノの音が生活の中からなくなってしまうと、心地悪い。そして、無性に聴きたくなる時がある。他にもサックスをずっとやってきてるけど、無性に体が求める、と何かのタイミングで感じるのはピアノの音だ。そして、クラシックの巨匠たちの王道の名曲は、やっぱり体の芯を振るわせる快感をもたらす。

 

最後は理想のイメージだ。

小さい音、大きい音、明るい音、暗い音、情熱的な音、艶やかな音、喜んでいる音、怒っている音、泣いている音、そして音と音の間。音色(おんしょく)という言葉があるように、全ての音には色があってイメージがある。

人によって何に対して喜怒哀楽の感情を持つかが異なるように、音もそうだと思う。もちろん演奏家によっても、表現が全然違う。

僕は藤田真央さんの音が理想の音だ。というのは、彼の音は、透明なコロッコロの球体のような感じがして、僕自身の体調が悪い時も良い時も、気持ちが沈んでいる時も、テンション高い時も、どんな時でも水のように入ってくる。

他にも、僕自身がこういう時は、この人の音が心地良くて、こういう時はこの人、みたいに理想的な美しい音がある。それを聴きたくて、それを表現したくて、ピアノに触れるのだと思う。

 

絵も他の芸術も、同じことが言えると思う。

 

今朝の母からのLINEを見て思ったこと。

芸術は才能だけど、でも才能でもないんだなぁ、ということ。

そして、それに助けられたり、逆にそれがネガティブに働いたりという、自分に良くも悪くも影響をもたらした原体験が影響してくると思った。

 

ちなみに僕は、本当にこれが顕著だと思っていて、全く頑張れない・努力できないことが多数あり、運動系やチームワークみたいなものがそれにあたる。そこに価値を見出して生きてこなかったし、むしろネガティブな経験しかない。

昨日書いた、組織で働くこと、リーダーとしてチームをまとめること、みたいんなことは典型例だ。そこに自己効力感もなければ、心地よさもないし、ましてイメージもない、、、。

 

そして、ちょっと思い出したVoicyの放送があるからシェアしておく。努力とは、才能とはということに関する放送である。

voicy.jp