日曜日、
「自分の産んだ命を自分で殺して何が悪いんだよ」
2006年4月・5月に起きた、秋田児童連続殺害事件。
2006年5月、神奈川県平塚市で発生した、平塚5遺体事件。
両方の事件共に、逮捕された母親が語っていたのは、冒頭に書いたような供述内容である。
憤りを隠すことができない。自分が生んだからと言って、その命を自分の好き勝手に抹消することは決して許されることではない。絶対に絶対に何があっても僕はその意見には反対だ。
でも、確かに、と思ったこと。
それは、命ってだれのものなのか、ということ。
これは僕が抱いた疑問というより、今読んでいる本の著者が心に抱いたこと。その疑問をベースにドラマ化した企画のプロデュースをした、という一連のエピソードが本では紹介されていた。
でも、本当にそうだと思う。
お腹の中にある命と、生まれてきた命は、それぞれ所有者が違うのだろうか?
万が一、命がその本人のものではなく、産んだ親のものだというのであれば、いったい何のために生まれてきたのだろうか?
そしてかなり広い広い視点で考えると、そもそも命って人とか動物とかそういうものを超えて、自然のもの、とも言えるのではないだろうか。
地震、台風、津波。自然は簡単に人の命を奪うし、一方で守ることだってある。私たちの命は大きく括れば自然の所有物なのかもしれない。
でも、僕はやっぱり命は、その本人のものだと思う。たとえ、お腹の中にいる時も、意識はなかったとしても、体の細胞が脈を打ったら、それは「生きたい」っていう意思表示なのではないだろうか。だから、お母さんの中にいる時だって、その命は本人のものだと思う。
ということは、終わらせるときも本人の意思で終わらせることは問題ないのか。
誤解を恐れずに言えば、僕は問題ないと思っている。
ただ、そこで極めて重要になるのは、それが本当に本心なのか、ということだ。
例えば、
「もうこの苦しい生活に耐えられない。希望が見えないこの世の中を生きていたって仕方がない。もう死なせてくれ」
これは確かに意思は意思だと思うけれど、こういう環境に陥ったのは彼の本心や意思ではないと思う。
一方で、
「本当にこの人生素晴らしかった。いい家族や友人にも恵まれて、今最高に幸せである。だからこの状態で人生を終わらせたい」
これは本人の意思だと思う。
姥捨ては前者で、欧米諸国を中心に広がる自死を選ぶ権利は後者だと思う。
孤独死の現場に直面した知人が言っていた。
「本当に悲しいんだよ」
分からないけど、孤独死を迎えるその前の段階で、もしかするとその人には共助・公助の手が差し伸べだされるべきだったのかもしれない。自助ではどうにもならなかったんだと思う。
僕は今31歳。あと30年後、僕が60歳を迎える時、この国の福祉は多分崩壊していると思う。そして、色々なアンケートから見えているけれど、多くの若者が海外に流出して、経済的にも物理的にも社会の担い手は不足すると思う。将来の若い世代に、なんの罪もない。彼らだって、自分が生きるために精一杯だろう。そして、今の僕らよりももっと、将来に向けて自分・自分の家族のために周囲を固めに入るだろう。
そういう時に、もし孤独死や、半ば強いられる形での自死が待っているのだったら、僕は幸せなタイミングで死ぬこと、もちろん家族もそれを受け入れていることが大前提だけれど、それは認められていいんじゃないかと思う。
命はだれのもの?
子供や家族を殺した母親
孤独死が当たり前になった現代
幸せな自死が認められる欧米諸国
分からない、けど少しずつ考えていきたい。
少しだけ、この内容に繋がるポッドキャストを紹介して、終わる。