土曜日、
皆さんは、無謀なことに良くチャレンジしますか?
『チャレンジ』と書くと、ちょっとカッコよく見えてしまいますね。
他人から見たら、
「いや、それちょっと無謀でしょ?てか、そんなことをして何の意味があるの?」と言うような、常軌を逸した挑戦みたいなものかもしれない。
つまり、別にそれやらなくても良くない?とか、そこまでやらなくてもいいんじゃない?とか、そういった類のものだ。
例えば、
・100Kmレベルを走り続けるウルトラマラソンに挑戦する人
・冬のエベレストに登頂する人
・真夏の酷暑日の日中にランニングをする人
・貯金を全て何かにはたく人
・ギリギリまでサウナの暑さに耐える人
・真冬に自ら滝行に出向く人、などなど。
実は今週、僕はとてつもなく忙しい状況に追われている。
ただ、他人からすると「そこまで一つ一つに拘らなくてよくない?」と、思われてしまうかもしれない。
結果、毎日30分刻みくらいで帰宅時間が遅くなり、昨日の金曜日は終電近くということになってしまった。
もうちょっと器用に、もうちょっと妥協してもいいのになぁとちょっと自分でも不思議に思っていた矢先、今朝のvoicyで荒木博行氏が、無謀なことをすることの心理について、独自の見解を述べており、納得してしまったのだ。
結論から言うと、「生命の輪郭確認行為」なのでは?とのことである。
もう少し身近な話に落とし込んで考えたい。
「自分、生きてる」と実感する時って、どんな時だろうか。
平和で単調な毎日では、自分が生きている実感を得ることって、意外と難しいのではないかと思う。
だから、「この先一歩踏み入れたら死ぬな、自分」といった感じで、自分の命の淵を確かめる行為をすることによって、生きていることを確認しているのかもしれない。
生命の輪郭の確認行為と言うと、少し大げさに感じてしまうかもしれないけど、『自分の成長の輪郭を感じる行為』と言い換えたらどうだろうか?
例えば、前回までは自分の限界はこの辺りくらいまでだったけど、今回はその輪郭が少し拡張していた、ということはないだろうか。
先に述べた、
マラソン、登頂、真夏のランニング、資産の使い方、サウナ、滝行。どれも、自分を痛めつけるような行為だけど、それを繰り返すことによって、自分の生死の淵を確認するとともに、その輪郭の拡張=成長を実感しているのではないだろうか。
僕の場合、じゃあ残業をもっとすればいいのか、というとそういう話ではないと思う。でも、
『昨日はこれくらいまでできたから、今日はもうちょっと頑張れるかもしれない』
と、無意識に限界の淵を確認して、それを拡張しようとしているのかもしれなかった。
どんな人でも、無意識的にこの生死の輪郭を確認する行為は、どこかしらで、何かしらで実施しているのだと思う。そうでもなければ、特に死が身近でない健康な若い人にとっては、自分が生きていることの実感を得ることが難しいと思う。
だから、無茶なこと、無謀なこと、向こう見ずな行為を取ってしまうのは、割と若い世代が多いのかもしれない。
これが健全であるための人間の性なのだと考えたら、ちょっと周りに優しくなれる気がした。
あなたの周りにも、無謀な行為を取る、訳の分からない人は結構いるんじゃないだろうか?
でも、そうすることで生きていることを実感する、成長を実感している、それが私たち人間だと考えたら、あなたに危害が及ばない限り、寛容になってもいいんじゃないだろうか。
無茶する人を割と冷めた目で見てしまう私は、少し考え方を変えようと思った。