HONEST

齢31歳。音声コンテンツ好きの僕が、日々の学びや気づきを、文章とイラストで自由に記録していきます。

3月23日 赤いランドセル

土曜日、

 

 

今考えたらとても不思議なのだけれど、どうして男の子は黒いランドセル、女の子は赤いランドセルということが当たり前だったのだろう。

今朝、尾石はるさんのVoicyを聞いて、改めて考えた。もう30年も前のこと、当時小学生だったはるさんの同級生の男の子で、赤いランドセルで登校していた子がいたらしい。理由を聞くと、僕は赤い方が好きだから、とのこと。この発言を聞いて、当時小学生だったはるさんは、衝撃を受けたらしい。

voicy.jp

僕が小学生だった20年くらい前も、ほぼ100%、男子生徒は黒、女子生徒は赤というのが当たり前だった。そんなこと、どこにも決まりとして書いていないのに、今考えたら本当に不思議である。

 

このvoicyの放送で出てきた彼は、割と飄々としている生徒で、周りから何か言われても特に気にしている様子はなかったとのこと。というのも、親御さんが子供の嗜好に対してとやかく言わない、その子がそれが良いと言ったら、それを信じてあげる姿勢だったとのこと。たまたまお家に遊びに行くことがあって、そんなお母さんの様子を、当時のはるさんは感じとったらしい。

 

これ、結構大きいことだよな、と僕も思う。

 

少なくとも今は、多様性が大事だとか、むしろ皆と違っていることの方が良いとか、そういう風に言われることも増えてきた。いわゆる個性的である、ということがポジティブに捉えられるようになってきたのだと思う。

 

でも、当事者、もしくは当事者の親になったら、本当にそんなこと言っていられるだろうか?

 

自分の子供が身体的または精神的な疾患を持って生まれたら、それを個性として受け止めることはできるだろうか?

気づいたら同性が好きだった、という自覚が芽生えたとき、自分自身を好きになれるだろうか?

性自認と体の性が違っていたら、それは個性として受け止められるだろうか?

自分の子供が大きくなって、小児性愛者だということが分かったら、そんな自分の子供を信じることはできるだろうか?

 

多様性は大事、個性的であることは魅力って簡単に言うけれど、僕は正直そんなに簡単なことじゃないと思う。

 

だから、この尾石はるさんのエピソードで出てきたお母さんは、本当に貴重な人だと思う。今から30年以上も前に、赤いランドセルを選んできた息子の意見を尊重する、って相当すごい。

 

ちょっとだけ僕の話をする。

ここまで極端ではないけれど、僕も似たようなところがあって。前から書いている通り、僕は恋愛対象とか性的対象に対して性別を意識しない。

 

美しいものが好きだ。凛とした姿勢、艶やかな髪色、口角があがった口元、そういう一つ一つのポイントに美しさは感じるけど、それが男でも女でもどっちでもよくて。やわらかい肌の感触とか、一方で鍛え上げられた肉体とか、そういうものは基本的に美しいと思う。でも、男女どっちでもよい。

美しいものが好きだ。

それは、人だけじゃなくて、ものもそうだし、音楽もそう。

 

僕の母も割とそういう傾向があって、だからこんな良く分からない僕の嗜好に対して、何も言わないのかなと思う。

高校生の時、眼球の解剖をしたことがあった。眼球と、眼球を切った時に現れる水晶体がとっても美しくて、部活が終わった後に生物室によって、先生から余ってる眼球を20個くらい持ち帰ってきたことがある。

でも、特に母は何も言わなかったし、確かに綺麗だね、と言っていた。

 

車に轢かれてしまって、もう死んでいるけど、顔が苦しそうすぎて、もうその顔自体をなくしてあげたいと思って、猫の死体を持ち帰ってきたときも、特に何も言わずに役所に電話をしてくれた。

 

美しいものが好きだ。

でも、だからやっぱり周りの人とは距離があったのは自覚していたし、今でも自覚している。それで基本的には必ずハードな部活に所属して、周りに揃える訓練をしたし、最初に入った会社も、The日本の伝統企業みたいなところで、忖度のお作法を教わった。

でも、集団の中に入ると、絶対に周りとずれてしまう。会社でそうなると仕事にならないから、基本は個性を殺しているけれど、だから絶対に分かりあえないだろうなぁと思って、心的には一定の距離を保っている。それは相手にも伝わるみたいで、マブダチみたいな人や同僚、先輩後輩はこれまで一人もいない。

 

個性的、多様性って簡単に言うけれど、同時に孤独だし、分かりあえないっていう辛さもある。

そういう時に、誰か一人でも、なーんにも言わないけど見守ってくれる人がいると、全然違うと思う。

 

ちょっとまとまらないけど、多様性や個性的ということを尊重していくには、見守ってくれる人、信じてくれる人が必ず必要だと、僕は思っている。