日曜日、
株式会社〇〇の▲▲部の部長。
〇〇大学■■学部所属。
A君のお母さん。
誰かのことを説明するときに、こういった所属に関する情報を用いることが多い。そしてこの一歩先の情報として、実績や経験、特技、性格などもう少し内側の情報を使って、その人のことを理解していく。
所属に関する情報でその人を説明するのが、商品でいうところの商品名、過去の経験や実績、性格や特技、などは商品でいうところの原材料に当てはまると思う。
商品名にして原材料にしても、商品のラベルに書かれていることである。
私たちは自分の意志に関係なく、外側の情報や第三者の視点によって、勝手にラベルを貼られてしまう。逆もまた然りで、ある友人に別の友人のことを説明する時、自分の中でその友人のラベルを勝手に作って貼ってしまっていないだろうか。
ラベルというのは、自分の力が及ばないところで、知らない間に自分に貼られてしまうと思う。そう考えると、少しネガティブに聞こえるかもしれないけど、そうでもないと思っていて。良い風にラベルを貼られれば、それは良い評判として回りに広まっていく。
もしあなたが権威主義者か何かで、自分の肩書きにとてもこだわる人だった場合、あなたの肩書きはラベルの内容に大きく影響する。それを見た周りの人は、あなたと接するときに、まずそのラベルをしっかりと確認するだろう。
勝手に貼られるラベルだけど、一方で勝手に剥がされてしまうものでもある。分かりやすいのが定年退職だろう。例えば、それまで仕事一筋でやってきた人が、定年という年齢制限で突然ラベルを剥がされると、あなたの中身は何も変わっていないのに、まるでアイデンティティが消滅してしまったかのように、別人になってしまう、そんなことだってある。
定年退職後に生きるモチベーションさえ失ってしまった、みたいな高齢男性の方は結構いるけど、まさにそれだと思う。
最近の清涼飲料水でラベルレスが流行っているけれど、あのイメージに近い。ラベルがあったから、伊右衛門やイロハスと分かっていたのに、剥がされるとよく分からない。
ラベルはコントロールが難しい。
一方のタグ。タグはつけられるものではなくて、自分からつけに行くものだ。
Xのハッシュタグ投稿しかり、インスタのハッシュタグ投稿しかり、自分がつけたいタグをつけて回りへと発信をしていく。
なんかこう聞くと、タグ付けの方が能動的だし、コントロールも効くしいいかもって思ってしまう。
実際僕も、以前の会社では企業アカウント(中国版Twitter)の中の人をやっていたし、今の会社でも企業Xアカウントを使って、”ハッシュタグ〇〇を付けて投稿してくれた人の中から抽選で、〇〇名様にクーポンプレゼント”みたいなことを日常業務としてやっていたりする。どんなタグにするかはしっかり考えて、確実につけにいく。
では、どんなタグをつければいいのか分からない、っていう経験はないだろうか。企業のアカウントとかの話ではない。SNSの話でもない。あなた自身のことだ。
直接タグをつけることは少ないと思うけど、普段のコミュニケーションを通じて、自分につけられるタグって何だろう、って考えることはないだろうか。
僕は大学生の頃や、社会人最初の3年間くらいはこれで悩んでいた。
僕は自分にどういうタグを貼れば、関わりたい人と関われるんだろうか。人が寄って来てくれるんだろうか。仮にいいタグが見つかっても、それを貼れるほどの実力や、興味関心がない、なんてこともザラだ。アイデンティティの消失、みたいな感じ。
確かに今考えると、自分の所属大学ではない大学のサークルに入ったり、休学して海外に行ったりしたのは、それだけでもうタグ付けになったから、だったのかもしれない。
でも、これは正直すり減る作業だ。心も体もお金も。
ある意味、ラベルよりもタグの方が結構辛い作業なんだと思う。
だから、例えあなたがどんなタグをつけていても、もしくは全くつけていなくても、更に言うとつけていたタグが剥がれてしまっても、丸ごとあなたを受け入れるよっていう、そういう人が居ると大きいんだろうなぁと、思った。
と、この感想は、いつも聞いている荒木さんのvoicyを聞いての感想だ。
昨日書いた話とも、今日の感想は少し繋がっている気がする。