土曜日、
先週我が家にやってきた小さなガジュマル。まだまだ赤ちゃんのガジュマルだ。ぽっちゃりとしたその体型も相まって、本当に幼く見える。
そんな赤ちゃんガジュマルに寄り添うように、大きな夏みかんが傍に居た。前に書いたけど、今住んでいるマンションの管理人さんから頂いた夏みかんである。
皮が硬いから剥くのにも一苦労だと思って、それなら観賞用として飾っておこうと、そう思ったのである。夏みかんをもらった日の翌日に我が家にやってきたのが、ガジュマルだった。
初々しい緑の葉っぱと、まだ明るい色を保っている茶色いポッチャリとした木の幹。その隣で、鮮やかなオレンジ色を放っている夏みかんというこの構図は、まるで美大のデザイン科の入試にある色彩構成の課題みたいであった。
1週間たって、夏みかんは役目を終えた。少しずつしぼみ始めて、オレンジ色が褐色に変わり始めてしまった。これでお別れだ。
まだまだベビーなガジュマルは何だかかわいそう。ただ、来週になれば親ガジュマルがやってくるからもう少しの辛抱なのだけれど、か弱いガジュマルを一人にさせるのが忍びなくて、新入りを招いた。
パキラである。実家に大きなパキラがあり、前々から自分でも育てたいと思っていたところに、たまたま購入するチャンスがあり、何度もお店の中を行ったり来たりして、購入に至った。
こちらも赤ちゃんパキラである。これからの季節、植物にとっては成長期になっていく。今から待ち遠しい。
母の仕事がお花関係であることと、実家がど田舎にあることも相まって、昔から庭のある家で育ってきた。家の中にも植木鉢に入った草木があったり、落ちてしまったブルーベリーの木の枝が花瓶に入れられて再生を頑張っていたりと、何かと賑やかだったけれど、やっぱり庭の木々たちは楽しそうだった。
草木だけじゃなくて、蟻にトカゲに、蛇にカエルに、野良猫に狸に、別にそこまで大きくない箱庭みたいな庭なのに、なんとなく楽しそうだった。
家の中の観葉植物、庭に植えられた草木、野生の花や木。それぞれ植物という括りではあるけれど、嵌められた足かせの規模が違っている。
家の中の植物は天変地異には全く無傷だけれど、常に鎖に繋がれているような感じだ。
庭の植物たちは台風が来たらダメージは大きいけれど、通行人に見られてなんだか気持ちよさそう。
野生の花や木は一番自由だけれど、一番自然のダメージが大きいし、しっかりと守られているわけではない。幹線道路沿いに植えられた木々たちは、いつも排気ガスを吸っている。
自由と不自由はいつも紙一重だ。草木の話をしているけれど、社会で働く僕らにも、とても当てはまる話だと思った。
赤ちゃんガジュマル、小さなパキラ、来週来る親ガジュマル
彼らの足かせを、僕は外してあげることができるんだろうか?
そもそも外すことが良いことなのか、幸せなことなのか?
そんなことを、このvoicyを聞きながら考えた。