HONEST

猫好き・植物好き・ラジオ好きの齢31歳。日々の学びや気づきを、ちょっとだけ得意な文章とイラストで自由に記録していきます。

7月13日 耳を澄ませば

土曜日、

 

 

 

youtu.be

 

『未来を旅するハーモニー』という曲を知っているだろうか。

ドリカムの曲で、第71回NHK全国学校音楽コンクール小学校の部の課題曲だった曲だ。当時通っていた小学校は合唱がとても盛んで、実はこの時僕も初めてNコンに参加した。ピアノ伴奏者としてだったけど、基本的には他の皆と歌は一緒に練習していたし、歌詞はばっちり覚えいた。

この曲の歌詞の中で、

”先生、本当なの?このハーモニーもコンクールが終わっても消えないの?”

”卒業しても、会えなくなっても、どこかで旅つづけるメロディー”

という歌詞がある。この翌年も僕は小6の時に参加しているのだけど、5年生の時に出会ったこの歌詞がずっと今でも心に残っている。

 

今から20年くらい前の話だから、今ほど小学生で塾に通っている子は少なかった。だから基本的に毎日放課後は練習。土日も練習。夏休みも毎日練習という日々だった。県大会は突破して、関東支部大会。ここで出会った衝撃的な歌が『耳を澄ませば』である。

当時、小学校の合唱界隈では非常に話題になっていた、東京都目黒区立大岡山小学校が自由曲として歌っていた。ちなみにこの学校は、この年(それ以降も連続して)に全国大会で金賞に輝いている。

戦争の犠牲になった子供達の叫びを歌った衝撃作なのだが、当時5年生だった僕はトラウマになるほど衝撃になった。その後に、埼玉県東松山市にある丸木美術館に行ったほどである。この曲の歌詞に、こんなフレーズが出てくる。

”手をかえせ 足をかえせ もがれて砕け散った わたしの手足

手をかえせ 足をかえせ ちぎれて引き裂かれた わたしの心

おねがい 戻ってきてよ わたしの手足 わたしの心”

そして最後は

”ねえ 僕を見て! わたしを 抱きしめて!”

で終わる。ディクレッシェンドでどんどん声がなくなっていくように終わるこの曲は、息絶えた子供を連想させるような工夫が施されている。

youtu.be

 

 

歌に込められた思いについて強い興味を持ったのは、この出会いがきっかけだった。

 

進学先の中学も、かなり合唱が盛んな中学校で、全学年クラス別対抗で合唱コンクールがあり、課題曲とクラス別の自由曲があった。夏休みの課題として、合唱画というものがあった。これは歌詞を読んでイメージしたものを画にするというもの。休み明けに提出し、選出された絵の作者は4畳くらいの大きな紙に、それを書くことになっていた。

絵が得意だったこともあるが、毎年この合唱画に選出されていたくらい、歌詞を読み解くことに興味を持った。

姉が合唱が盛んな高校に通っていたこともあり、うちにはたくさん楽譜があった。その中にあった、谷川俊太郎作詞の女声合唱曲『悲しみは』。

この中で、最終的に、”悲しみは ただここに在る 今日のものたち”と言っている。

ある日突然愛する人を失った時、悲しみはその人がいなくなっても、ただそこに残っている今日のものたち。悲しみとは自分の悲しいという心を離れて、ただ今目の前でいつもの風景を作っているものたち。この歌詞にも衝撃を受けた。

 

こうして僕は、歌詞と、どうして歌にする必要があったのか、そこに音楽がつくことや、音楽としなければならなかった理由、合唱やクワイアにしなければいけない理由はどこにあったのか、ということに興味があって、文学だけでなく文化や文芸、音楽も学べる文化構想系の学部に進んでいる。歌と抑圧された人々、いわゆるマイノリティの人々は密接な関係があり、それから社会の周縁に居る人々に興味を持ったのだ。僕自身が性的マイノリティであるから、尚更こういう学問が刺さったのかもしれない。

 

そして、海外インターンや留学先でも週末のミサでゴスペルに参加したり、何かと歌は僕の生活の一部になっている。どうしても、発展途上国ばかり行ってしまうのも、そこには歌わないとやっていられない人達がいたからだと、いま改めて思う。

 

この前、何気ないことから、YouTubeのお気に入り一覧を見ることがあり、そこにお気に入り登録していた「未来を旅するハーモニー」と「耳を澄ませば」を久々に聞き、過去のハーモニーが確かに今の自分まで届いていることを実感した。