土曜日、
最近、偶然にも友人宅でシャワーを借りる機会が重なった。
着てきたものをまた身に着ければ済むのだが、もちろんタオルは持ってきていないから、借りることになる。
面白い、と言うか興味深いのは、タオルにはそれぞれの家庭の色が如実に現れるということだ。
まず大きさから。バスタオル、というものを個別に用意している場合が多いだろうが、中にはフェイスタオルをバスタオル代わりに使用しているケースもある。シャワーを借りたうちの一人はそのパターンだった。
大きいバスタオルになると、必然的にバサッと濡れた体をくるむという行為が発生する。その時に、タオルの匂いと質感がダイレクトに僕に伝わってくる。そもそもシャワーを借りている以上、こちらには良し悪しを判断する権利はない。ただ、言葉通り真っ裸の状態だから、どうしたって伝わってきてしまう。
あ、乾燥機にかけているな。あ、柔軟剤使ってるな。あ、部屋干しだな。などなど。
ただ、そもそも使っているタオルのクオリティが高いと、部屋干しであったとしても、ある程度はカバーされているのかもしれない、なんて考えていた時、ふと僕の場合はどうだろうと考えてみた。
実は、僕にとってのタオル・バスタオルはお金をかけないものの典型例であった。なんなら百均で手に入るものとして、社会人1年目の時は百均で全て揃えていた。もちろん、バスタオルではなくフェイスタオルで代用だ。
いまはバスタオルとして独立したものを使っているけど、それも別に品質にはこだわっていなかった。
ただ、今回偶然にも何件かのバスタオル事情に直面し、本当に素の状態である自分を直接くるんでくれるものとして、バスタオルってとても大事なのではないかと感じた。
良いバスタオルは、まるで僕を優しく包み込んでくれるみたいだった。言い換えれば、僕のことを大事にしてくれているように感じたのである。
前にもこの日記で書いたけれど、僕は結構ストイックな性格だと思う。ストイックであるからこそ、色々と成果が出せる側面がある一方で、自分に優しくする方法を知らない。バスタオルに象徴されるように、自分自身を優しく包み込んであげる方法を知らない。
自分に対して出来ないことは、他人に対しても出来ないわけだから、翻って他人に優しくなる方法を知らない、ということになる。そこでちょっと立ち止まった。
確かに、「なんでこれできないんだろう?」と、別に嫌みではなくて、素朴にそういう思考になってしまうことが結構あることに気が付いた。
え?なんで気づかないの?
え?なんで動かないの?
え?なんで遅れたの?
直接言葉には出さないけど、口先まで出かかった「なんで?」を飲み込む回数がここ最近増えている。
やばい。
そう思って、今日ちょっと良いバスタオルとフェイスタオルを買いに行った。古いやつは思い切って捨てた。
自分を大事にできない人間が、他人を大事にできるはずないよね。