HONEST

猫好き・植物好き・ラジオ好きの齢32歳。日々の学びや気づきを、文章とイラストで自由に記録していきます。

9月23日 年相応に生きる

火曜日、

 

 

ある人は「人生はあっという間に終わる」という。

またある人は「人生は意外と長い」という。あなたはどっちのスタンスだろうか。

どちらが良いとか悪いとか、そういう話をしたいのではなく、短いと捉える人と、長いと捉える人の間には、どういう違いがあるのか。それを考えたい。その際に一つのキーワードとなるのが、年相応という言葉だと思う。

実は最近、僕の周囲で、人生に対する価値観が変わったと教えてくれた人がいた。

ちょうど今年63歳を迎えるその人は、今年に入って次々と体に不調が現れていた。まずは帯状疱疹。次に側弯症と思われる症状。そして、体をかばって歩いていた中での転倒で、尾てい骨を酷く打ってしまい、そこからは体の至るところが痛むようになった。これまで通っていたジムやヨガが一変し、代わりに鍼灸院や整形外科に通うになった。

その人は話していた。止まっていることが苦手なのだと。いつも何かしなければいけないと思って、動き回っている。休むことが苦手なのだと。

それが物理的に体が動かせなくなって、休むことを求められるようになった。最初のうちは、体の痛みよりも、そういう自分が許せなくて、気持ちの方がズキズキと痛んでいたという。

ただ、そんな状況になってから3カ月くらいが経過した時、とある人に言われた言葉で彼女は我に返った。彼女はピアノ教室を開いているのだが、そこに来ている中学生の生徒さんからこんなことを言われたのだ。

「あれ、なんか雰囲気変わりました?なんか、いつもより優しい感じがする」

その日は、ピアノのレッスンを少しだけ減らし、その中学生と沢山話をしたのだという。その中学生は、学校で起きていること、勉強のこと、ピアノの伴奏に立候補したいこと、将来がちょっと不安なことなどなど、沢山話して、そして帰っていったらしい。

 

”もしかすると、これまで無理をしていたのかもしれない”

そう気が付いた時、そこから人生の考え方が変わった。

これまで、もっと頑張らないと、何かできることがないか探さないと、といつも急かされるように生きてきたのは、人生をすぐに終えてしまう人たちを沢山見てきたからだという。そう、彼女は中学高校と、ほとんど病院で過ごしているのである。MDS、いわゆる白血病の前癌である。何人もの人が亡くなっていくのを横目に、彼女は何とか寛解の状態を保ち、復帰することができた。

それからというもの、とにかくやれることは全部やる、人生はいつ終わるか分からないと思ってきた。だから、そもそも60年以上も生きているということが、彼女にとってはあり得ないことなのだ。

ただ、それくらいの年数を生きたということを改めて考えてみると、人生は意外と長いという風に思えてきた。

ここからは行き急ぐのではなく、この人生をどうやって長く続けていくか、その方が大切だ。生きたくないと思って生き続けるのではなく、楽しいと思って生き続けるにはどうすればいいか。そう思うようになった。

60代を超えて、ジムにもヨガにも行き、仕事も何個も抱えて、くつろぐ時間は寝る時間だけという風に生きてきた彼女は、もしかすると周りから見ると少し頑張っちゃっている人に見えたのかもしれない。

そこで改めて、年相応にいこうと考えてみる。そうなるとどうだろうか。これまでとの大きな違いは「余裕が生まれた」ことである。

機械が考えると分かりやすいだろう。安全性を担保するために、あえてハンドルや装置に遊びを利かせておく。そうすると外部からの突然の強い力を躱すことができて、事故が防げる。

これと同じだ。人間にも遊び、つまり余裕が必要なのである。もちろん、遊びがあると、ギュッと強い力が出づらいから、動かしたり前に進んだりする力は弱まる。でも、壊れないのだ。故障しないのだ。

人生もそういう余裕をもって、そして壊れずに過ごしていく。つまり、細く長く過ごしていくと、壊れることは少ないのだろう。それは言い換えれば、行き急いだり、変に若々しくいようとするのではなく、年相応に生きるということなのかもしれない。

 

一生懸命頑張っている人、若々しくいようと努力を惜しまない人。僕は彼らを尊敬するし、僕もそういう人たちに憧れを抱いて、いつも目指している。

でも、ある一定の年齢が過ぎたら、今度は年相応の価値観で過ごすのも悪くないだろう。そこから生まれる気品は、30代の僕にはまだまだ獲得できる代物ではない。

年相応に生きることは、長く生きること。一瞬の短い輝きも大事だけれど、長く細く生きることから生まれる余裕と、それに伴った美しさも、また格別なものだと思う。