火曜日、
今思えば、正直何がきっかけだったか分からない。
ずっとジョギングを日々のルーティーンにしてきたのだけれど、そこに筋トレが加わった。なんだかんだ1時間かけてしまうから、1日の中でこの時間はそれなりの部分を占めている。
この時間をもっと良い時間にしたい、そう思って始めたのが、トレンドの曲や、その反対で昔の曲をランダムに貪って聞いてみることだ。
最近話題のフルーツジッパーやキューティーストリートみたいなアイドル系の曲もあれば、僕の青春時代ドンピシャの一昔前のグループの曲まである。
そんな中、昨日偶然聞いたのがMr.Childrenだ。
いま30代前後の人であれば、だれもが一度はハマったことがあるアーティストなのではないだろうか。僕もその一人だった。ただ、シーソーゲームや口笛、Signのような絶対的支持がある曲というより、僕はその少し後くらいに出てきた曲が好きである。
それは、まさに毎日感受性を爆発させて生きていた時代と重なるからである。
中でも特に好きな曲、それが「花の匂い」だ。
解釈は様々だと思うが、通底しているのは、「たとえ命がなくなってしまったとしても、きっと繋がっている」というメッセージであると、僕は思っている。
タイトルにもなっている「花」。亡くなってしまった人が姿を変えて現れたものの象徴として描かれている。
自分にとって大切な人が亡くなってしまった時、もしくは自分が命を落としてしまった時、きっと姿を変えて会いに来てくれる、だから安心してほしいという鎮魂歌のようなものかもしれない。
当時この曲のMusic Videoを見た時は、僕は正直鎮魂歌なんて全く思わなかった。
”遠いどこかであなたがその目を細めて聞いている”
”別の姿で同じ愛眼ざしで あなたはきっとまた会いに来てくれる”
こういうことでしか、相手を感じられないような状態にさせるという戦争や殺人は、絶対にやってはいけない、と正義感を覚えていた。ただ、あれから僕も大人になり、そうやって思わないとやっていけないこと、辛いことがあっても私たちは生きていかなければいけないという現実を知って、この歌詞を始めて理解できた。
この曲が再び脚光を浴びたのは、2021年のTBSの音楽の日だ。東日本大震災からちょうど10年のこのタイミングで、オープニング曲として披露されたのである。ちょうど、地震発生の午後2時46分に重なる形で演奏され、曲の間で、黙祷のサイレンが入るという演出だ。
これを見た人達は、大いに感動してSNSにもコメントが溢れた。
一方でだ。
サイレンを一つの演出として使う、これに対して当事者として違和感を感じた、という声もあった。私もそれは同感だ。
やはりテレビなのだ。どうにかして、視聴者を惹きつけなければならない。そして、メディアにも取り上げてもらう必要がある。
この企画を考えた人の評価もかかっているからだ。なぜなら、これは報道ではなく、エンタメだからである。企画として成立するかどうかが重要で、コンテンツとしての魅力度を測るKPIとして瞬間視聴率が大事になるだろう。
本当にこの歌を、東日本大震災で亡くなった人たちの鎮魂歌として捧げたいのであれば、正直こんな演出はなくても良かったと思っている。
ただ問題は、Mr. Childrenが、この2020年代でも存在感を維持して、そして音楽の日という企画を意味のあるものにするためには、こういう演出は必要だったということだ。
こういうアーティストやTV番組がなければ、そもそも震災の記憶が風化してしまう危機感は僕にもある。
表現することは大切だ。
ただし、表現者がいると同時に、表現を受け取る人もいる。表現の自由があるから、だれも制限はできない。
大事なのは、どういう考えに基づいてその表現をしているのか、という背景の部分だと僕は思う。
する側も、受け取る側も、そこに耳を傾ける姿勢はもっていなければいけない。
一方聞いて沙汰するな、この考えは、まさに表現のフィールドでも同じだ。
メディア表現に携わる一人の人間として、改めてそこを忘れてはいけないと思ったGW最終日である。