HONEST

猫好き・植物好き・ラジオ好きの齢32歳。日々の学びや気づきを、文章とイラストで自由に記録していきます。

9月6日 支援とかチャリティとかに対して思うこと

土曜日、

 

 

ボランティアとか、チャリティとか、国際協力とか。

何か強烈な実体験がない僕にとって、こういう活動は、当事者を助けたいという気持ちよりも、そういうことをやってみたい、経験値を広げたいという欲求から来ているものだと改めて思った。

 

8月最終週の土日、毎年恒例の24時間テレビが放映されていたらしい。テレビがない我が家では、もう何年もこの番組を見ていない。それでもニュースで何かしら情報が流れて来たり、同僚との会話の中で「そういえば24時間テレビで、、、」という話が出て来たりして、まだまだ世の中的には話題になるんだなぁと実感していた。

そんな折、会社のチームメンバーから

「そういえば、チャリティとかボランティアとか、そういう所から最も遠い所で生息してそうな生き物ですよね」と、いかに僕がそういう活動と無縁であるかを半分ネタ的に言われた。

自分でも納得できる。だから全然何も思わない。ただ、ちょっとだけ違和感があったのは、実は学生の頃は24時間テレビはもちろん、ボランティアや国際協力にすごく興味があって、実際に現地にもよく赴いていたし、NGOにも参加していた。

24時間テレビで紹介されていた海外の貧困地域や災害現場とかの映像は特に胸に来るものがあって、いつかこういう所で働きたいと思っていた。これは本心からそう思っていた。

実際に、途上国と呼ばれるような国々にも住んでみたし、スラムと呼ばれるところの家庭を訪問したり、農村地域で働いてみたり、インタビューをしたりしてみた。

よく言われることだけど、実際に外側から見るんじゃなくて、自分が内側に入ってその当事者と同じ目線で立ってみると、支援したいとか助けたいとか、そういうのは上から目線であると認識する。

それは、決して彼らは卑屈に生きているわけではなく、その環境の中で楽しく生きているからだ。文化も価値観も金銭感覚も違う人々同士が、相手のことをかわいそうだとか、楽しそうだとか、そういうことが言えるはずがない。こんなに恵まれている日本だって、他の国の人々からすると、生きづらいとか、かわいそうとかそう思うかもしれない。

そういう実体験も相まって、実際に現地に行けば行くほど、”支援”みたいな考えはなくなってしまった。支援するなんておこがましいのである。

そういう経験をして日本に帰国した後で、さて自分の中には何が残っているんだろう、いつも葛藤があった気がする。

ただ一つ確かだったのは、経験値が上がったということ。そして知らない世界を知れたということ。更に、国際協力とかボランティアとか、そういうものに対して幻想的な憧れはなくなり、逆に何も思わなくなったこと。

 

だから、表面的にはこういう支援系のトピックに対し、僕は冷めていると言われることが多い。同情とか、そういう気持ちがほとんどないからだ。

むしろ、どちらかと言えば平等に見れるようになったと思う。彼らは、彼らなりに、ちゃんと日々を送っていて、しかもそれが成り立っている。学校に行った方が良いかもしれないけれど、今の彼らからしたらそれはベストアンサーではないかもしれない。あくまで、世の中的な価値観の押し付けに過ぎない。

こうした方が良い、こういうことが正解だ、というものが存在しない世界では、ただただ僕は、こういう知らない世界を経験させてもらった、ということに感謝するだけなのだ。

 

24時間テレビを見てすごく感動していたし、胸が痛んだのは、当事者の側に立ってこちらの世界を覗く前の私だった。

 

誰に対しても優しく、だれに対しても厳しく、どんな生活に対してもその人が良いと思っているならそれでいいし、悪いと思っているなら変えればいい。一人の当事者ではない人間が簡単に同情することは、それは、同情している自身に対してのエゴに過ぎないと思っている。

 

究極の平等は尊重だ。だから僕はあくまで当事者を尊重し、僕を主語にして、その世界を体験させてもらったというに留めたいのである。